追手門学院大学をいったん出て、大学の敷地と住宅街の間の細い道をフェンス沿いに5分ほど歩くと右手に突然大織冠神社と書かれた大きな石碑と鳥居が建っていた。
ここから将軍塚古墳へは、この石段を登っていかないといけない。この石段が結構きつかった。この石段の途中、小さい鉄の棒のようなもので作られた鳥居が建っていた。あまり見かけない、なんとなく珍しい気がした。
ふうふう言いながら、石段を登っていくと、正面に古墳の石室がきれいに開口していた。
この古墳が将軍塚古墳である。別名として、鎌足公古廟や将軍山古墳1号墳などとも呼ばれている。古墳の羨道部には、天井石がすでに失われており、玄室のほうは、柵がはめられていて、中に入ることができなかった。(調べてみると鍵が開いているので、開けて内部を見ることぐらいはできるようである。)
この時は、持参していた懐中電灯で頑張って照らしてみたが、残念ながら内部を確認することはかなわなかった。
おそらく大織冠神社と言われているのは、この石室自体が祠になっており、信仰の対象として祀られているからだろう。信仰の場を穢してはいけないという気もするので、その辺で内部観察はあきらめることにした。聞くところによると、右片袖式の横穴式石室で、長さ5.7m、幅2.3mの大きさであるらしい。
そして、古墳の横には、藤原鎌足の子孫である摂関家九条家が建てた「大織冠鎌足公古廟」という石碑が建てられており、明治時代までは、九条家によって祭祀が継続されていたと推察される。
当時は、ここが藤原鎌足の墓所の一つであると考えられていたのであろう。確かに藤原鎌足の出自である中臣氏と将軍塚古墳のある三島郡とは密接な関係があり、藤原鎌足自身、若い時(大化の改新前夜)に三島郡に隠退したという伝承もある。
最初、ここに埋葬されたのち、談山神社の御破裂山に改装されたという話もある。
しかしながら、古墳の様式からは、6世紀の後半の築造と考えられており、鎌足が活躍した時代からは、100年近い開きがある。ただ、鎌足の御先祖さんの墓所である可能性はありそう。ちなみに、鎌足の墓所としては、同じ北摂にある阿武山古墳が有力である。
古墳の左側に、けもの道のような小道があったので、木の枝をつかみながら、古墳の上に登ってみた。特にこれと言って何があるわけでもないのだが、これもマニアの性というやつかもしれない。
登ってみると、円墳というのだけはわかった。(笑)
以前、この将軍塚古墳のほかに、周辺には6基ほどの将軍山古墳群と呼ばれる古墳があったが、移築された一基を除き、宅地開発によりすべて破壊されたそうだ。その移築された古墳が、将軍塚古墳の隣にあった。
ということで、次回に続きます。
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