火振山古墳から北花内大塚古墳へは、これまで来た道を山麓線まで引き返し、そのまま東へ突き進むだけである。周りの景色が、田園地帯から徐々に住宅地に変わっていく。
近鉄御所線が見え、さらにその向こうのくら寿司などの看板が見え始めると左へ住宅地の中を入ると北花内大塚古墳である。
古墳は、現在、飯豊天皇埴口丘陵に治定されている。
飯豊天皇とは、あまり聞かない名前である。歴代天皇125代の中には含まれていない。第22代清寧天皇の死後、顕宗天皇と仁賢天皇が即位するまでの間政務をとったと伝えられる人物で、飯豊青皇女と呼ばれることも多い。
飯豊青皇女が、政務を取ったという言い伝えは、古事記、日本書紀ともに記述があるが、いくつかの違いがある。そもその飯豊青皇女は、古事記では、履中天皇と葛城氏出自の黒媛との間に生まれたとされ、一方日本書紀では、履中天皇の皇子である市辺押磐皇子の子で、母はこれも葛城氏出自の荑媛(はえひめ)との間に生まれたとされる。これだと顕宗天皇、仁賢天皇の同母姉となる。
清寧天皇の死後、天皇には子どもが居なかったため、皇位継承者がない状態となり、播磨国に隠れていた顕宗天皇、仁賢天皇が見いだされるまでの間、政務を取ったと伝えるのが古事記、日本書紀では、顕宗天皇と仁賢天皇が皇位を譲り合ってなかなか即位するものが決まらなかったため、決まるまでの間政務を取ったというものである。
考えようによっては、飯豊青皇女が、推古天皇に先立つ最初の女帝であったと言えるかもしれない。
そして、この皇女も葛城氏の血を引くものであり、まだこの時期は葛城氏もそれなりに隠然とした勢力を保持していたのだろう。
さて、飯豊天皇陵に治定されている北花内大塚古墳だが、前方部を西南に向ける墳丘長90mの前方後円墳であり、後円部径50mに対して前方部幅75mと後円部よりも前方部が発達した後期古墳の特徴を示している。
古墳の周辺からは、円筒埴輪などが出土しており、それらから5世紀の末から6世紀の前半の間に築造されたと考えられている。
そうなると飯豊青皇女がここに埋葬されたという伝承とも年代的には合致してくる。ちなみにこれまでの古墳では、屋敷山古墳、火振山古墳の次に造られたもののようである。そして、その次が二塚古墳になるのだろう。
この北花内大塚古墳、北東側が住宅密集地なのに対して、南西側は、水田ばかりと全くロケーションが違う。
ただ、田んぼの中に浮かんでいる姿は、それなりにいい感じであり。この風景は残してほしいなあと思う。
【地図リンク】
https://goo.gl/maps/Zq2rbDEPVwrNASEw7
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