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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

船岡山周辺の火葬塚

2020-08-22 23:27:37 | 史跡を歩く

 以前、このブログで船岡山周辺は、古くは蓮台野を中心に葬送の地であったと記した。そのことを示すのが千本北大路にある上品蓮台寺と言うお寺だったりするわけだが、それ以外にも、船岡山の周辺から北にかけて、平安時代後半から院政期にかけての天皇や皇族の火葬塚なるものがいくつか見ることができる。

 火葬塚という用語は、あまり聞きなれないものであるが、古代、中世において、火葬した場所を火葬塚とし、遺骨については別の墳墓に納めるのが一番格式の高い葬法であり、天皇かもしくはそれに近い近親者のみができるものであったらしい。そして火葬塚については、火葬した場所については、土を盛り上げて塚を作り、その上の石の卒塔婆を置き、周囲を方形に溝を掘ることとされている。

 ちなみに火葬された天皇の初見は、飛鳥時代の持統天皇である。また、火葬塚を作ったとされる最初の天皇は、清和天皇である。

 船岡山の北、北大路通に面して、白河天皇皇女媞子内親王の火葬塚がビルに挟まれて、ひっそりを存在している。

 

 学生時代、北大路通もしばしば通学のためバスで通っていたので、何となくそういうものがあったのは記憶している。

 媞子内親王については、白河天皇の第一皇女であり、のちに同母弟堀河天皇が即位するにあたり、准母となった人物である。非常に美しく、父である白河天皇に愛されたとされる。そのため、内親王が斎宮として卜定されたときは、野宮までついていったり、斎宮を終えた後は、堀河天皇の准母とした。ちなみに天皇の同母の姉弟で、配偶者でもない人物が皇后として立てられたこと(准母立后)の始まりとされる。

 

 佳人薄命と言うのかな、残念なことに、媞子内親王は1096年、21歳と言う若さで亡くなっている。陵墓は、醍醐寺の近く、上醍醐陵に、母、藤原賢子と一緒に埋葬されている。

 媞子内親王の火葬塚から、北大路通を西へ向かい、千本通と交差する北大路千本の交差点の北側、消防団の屯所の横に後冷泉天皇の火葬塚がある。

 

 後冷泉天皇は、ちょうど摂関政治の全盛期にあたる時期の天皇である。父は後朱雀天皇であり、母は藤原道長の娘である嬉子である後冷泉天皇と藤原頼通の娘、寛子の間に子どもが生まれなかったことが、次に藤原氏を外戚としない天皇、後三条天皇の誕生への道を開くこととなった。1068年に亡くなり、船岡の西野で火葬され、遺骨は仁和寺内の円教寺に納められたと伝えられる。現在、円教寺陵として龍安寺内にある。

 

 よくわからないが、航空写真で見ると、円形の塚があり、周囲を濠が巡っている。ここからもう少し北へ上がると、佛教大学の紫野キャンパスがある。

 後冷泉天皇火葬塚から西へ千本通を渡り、社会福祉施設京都ライトハウスの裏に回ると院政期の天皇、近衛天皇の火葬墓がある。

 

 細い参道を北へ入っていくと拝所がある。ここは、火葬塚との距離が近いので、火葬塚の構造がわかりやすい。塚が中央にあり、周囲を四角く濠が巡っている。

 

 近衛天皇は、父は鳥羽天皇、母は美福門院得子である。崇徳天皇の譲りを受けて即位するが、1155年、17歳で亡くなった。天皇の在位中から摂関家、藤原忠通、頼長の対立が激化、翌年に天皇家を巻き込んで、保元の乱が勃発することになる。

 

 近衛天皇は、船岡山も西の山作所で火葬され、知足院に納められ、後に鳥羽東殿の美福門院の多宝塔に改葬されている。この多宝塔は、豊臣秀頼が再建し、現在に至っている。

 この辺りもう少し範囲を広げるとさらに火葬塚や陵墓がある。次はその辺りで。



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