休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

南河内の古墳 河内大塚山古墳

2017-10-26 23:52:54 | 史跡を歩く
 大阪府の南部、羽曳野市と松原市の間に所在している超大型の古墳である。大きさで言うと、大山古墳、誉田山古墳、石津ミサンザイ古墳に次ぐ、大阪府下では4番目に大きい古墳であり、全国でも5番目の大きさの古墳である。これだけの大きさで、しかも保存状態がかなり良く、実際に見学に行っても、かなり見ごたえのある古墳なのだが、古市古墳群と百舌鳥古墳群の中間点にあるためか、どうも影が薄い古墳である。

 

 その影の薄い印象が影響したのか、世界遺産「百舌鳥・古市古墳郡」の中にも入れてもらっていない。古墳の位置や築造年代から考えると百舌鳥・古市古墳群と密接な関係にあるのは間違いないし、おそらくその時代の最後の大王級の古墳だと思われるのだが、残念なことに百舌鳥・古市古墳群を構成する古墳とはなっていないのである。

 

 河内大塚山古墳の規模としては、全長335m、前方部幅230m、後円部直径185m、前方部高さ4m、後円部高さ20mとなっている。特徴的なのは、前方部がかなり発達しており、後円部よりもかなり広がっており、また、後円部に比べて著しく前方部が低い。前方部については、中世の頃には、城郭として使用されていたことや大正時代までは、古墳の上に集落等があったことから、後世の改変を受けた結果かもしれない。

 

 現在は、陵墓参考地として宮内庁が管理しており、参考地としての指定を受けた時に、古墳の上にあった集落は移住させられている。河内大塚山古墳が、陵墓参考地として想定しているのは、雄略天皇とされている。このブログでも紹介したが、現在雄略天皇陵として治定されている高鷲丸山古墳、高鷲平塚古墳が、二つの古墳を無理矢理つなげて前方後円墳とした面妖なものであったので、さすがに異論があったんだろうなあ。
 僕が古墳に興味を持ち始めたころは、河内大塚山古墳が雄略天皇の真陵ではないかといわれていたが、最近の研究では、河内大塚山古墳の築造された年代が高槻にある今城塚古墳と見瀬丸山古墳の間に造られたのではといわれるようになっている。

 

 そうなると、雄略天皇が活躍した時代よりも下ることになる。古墳の築造年代は、現在では6世紀後半の築造といわれている。なお、古墳の墳丘に段築が見られず、埴輪等も見つかっていないこと、埋葬施設として横穴式石室を用いていることなどから、見瀬丸山古墳と近い特徴もある。

 

 被葬者としては、安閑天皇、あるいは敏達天皇ぐらいまで射程に入れてもいいのかもしれないという気がする。決定的な証拠がないのであくまで憶測というところである。

 

 古墳の周りは、羽曳野市側である東側と南側は住宅が密集しており、住宅の隙間から除くことしかできない。松原市側である古墳の西側と北側からは古墳の優雅な姿を眺めることができる。

 

 ただ、古墳が大きすぎてきれいに1枚の写真に収めることができなかった。見学に行ったときは、古墳の周濠の水量を豊かであり、水鳥の楽園さながらに、水上には多くの水鳥が泳いでいた。
 いい感じの古墳なのだがなあ。
 惜しむらくは、途中デジカメの電池が切れ、携帯電話のカメラを使用したこと。また近いうちに写真の撮り直しをしようと思う。

 河内大塚山古墳は、近鉄恵我ノ荘駅から歩く。近くには重要文化財に指定されている吉村家住宅などがある。

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