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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

万葉歌碑 飛鳥稲渕宮殿跡

2017-05-14 15:40:44 | 文学をたどる
 飛鳥地方の神奈備と言われるミハ山、フグリ山のふもと、ちょうど坂田寺跡の飛鳥川を挟んで対岸にあたるあたりを祝戸と呼ばれており、国営飛鳥公園の祝戸地区にあたる。その祝戸から稲渕へ向かうあたりは、棚田が非常に美しい場所として知られている。

 

 飛鳥川に沿って稲渕に向かう道の西岸に飛鳥稲淵宮殿跡という石碑が立っている。今回、この項を書くにあたって、調べて初めて「飛鳥稲淵宮」ではなく、「飛鳥稲淵宮殿」なのだということに気づいた。何となくここに飛鳥稲淵宮と呼ばれる飛鳥時代の宮殿跡があったのだぐらいの感覚であったのだが、そうではなく、ここには飛鳥時代の宮殿と思しき遺跡が出てきたけども、よくわからないから地名をとって稲淵宮殿跡としましたということである。ここに宮跡があったというのは、はっきり文献には残っていない。ただ、孝徳天皇の白雉4年(653年)に、難波長柄豊碕宮に孝徳天皇を残したまま、中大兄皇子は、皇祖母尊(のちの斉明天皇)や間人皇女などを連れて、飛鳥に戻った時、飛鳥河辺行宮に入ったとされている。その飛鳥河辺行宮がこの宮殿跡ではないかと言われている。しかしながら、確定的な証拠はなく、斉明天皇の殯宮ではないかとう説もあったりする。出土した土器などからは、7世紀の中ごろから7世紀末まで存在していたらしい。

 

 稲渕宮殿跡については、昭和51年(1976年)から翌年にかけて発掘調査が行われており、東西に、正殿と後殿があり、その東、南北に2棟が連なる形で、掘立柱建物が見つかっている。建物の間には石が敷き詰められており、また、東西の建物は、正殿とされる建物は、四面廂付建物であり、後殿とされる建物は、南片廂付建物である。また、南北は、西片廂付建物であることから、西側にも、建物があったことが想定され、中央の石敷きに舗装された空間を挟んで左右対称の建物配置が考えられている。

 

 稲渕宮殿跡の隅には、万葉歌碑が建っている。歌碑には、「明日香川 七瀬の淀に 住む鳥も 心あれこそ 波立てざらめ」という歌が万葉仮名で刻まれており、これも揮毫は犬養孝氏である。飛鳥川にある多くの瀬に住む鳥も、心があるからこそ波立てないのであろうという歌意になるのだろう。鳥に何かの想いを仮託している歌である。いろんな事ががあるけれども、もう事を荒だたてないで欲しいという願いを歌っているのだろうか。そう歌いたくなるような気持ちになることも最近多いなあ。

 

 ちなみに、この歌は、犬養氏の「万葉の旅(上)」には取り上げられていない。

 

 飛鳥川にそった祝戸から稲渕へ向かう道は、春は、菜の花や桜の花、秋は青々とした稲田の風景で、日本の古くからの風景をイメージさせてくれるところである。あまり訪れる人も少なく、開発もあまりなされていない。
 この辺ぐらいは、もうそっとしておいてほしいと思う

 

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