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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

「万葉の旅」をたどる ⑬ ~南淵山~

2017-05-13 14:22:18 | 文学をたどる
 都塚古墳から飛鳥川の方へ降りていくと、宿泊施設の祝戸荘があり、そのそばに坂田寺跡がある。

 

 川沿いの道から、里道に入ったところに「坂田金剛寺址」と書かれた石碑が立っており、その先に坂田寺跡の解説板がある。

 

 解説板の奥には、小さなポケットパーク風の広場が広がっている。植込みの感じから回廊跡等を示しているんだろうなという気がしたが、あんまり詳しくはわからない。坂田寺については、解説板によると、用明天皇の2年(587年)に天皇の病気の平癒を願って、司馬達等の子、鞍作多須奈が建立したと伝えられ、また一説では、多須奈の子、鞍作止利が建立したとも言われる。いずれにしても、鞍作氏と深い関係にありそうである。また、飛鳥時代、奈良時代を通じて尼寺として栄え、奈良時代、坂田寺尼信勝は、東大寺大仏殿の東脇侍を寄進したと伝えられる。
 
 

 坂田寺の伽藍の全体はあまりわかっていないようで、過去の発掘調査では、奈良時代の回廊と仏堂跡が見つかっており、また平成10年(1998年)の発掘調査では、仏堂の前面からも、基壇建物が2棟見つかっているが、調査区域が狭く、全体を解明するには至っていない。ただ、周囲を見ると、かなり山が迫っており、すぐ前は飛鳥川が流れていることから、地形的な制約もあり、あまり知られていない特異な伽藍配置になっているのではないかと想定されている。
 この坂田寺があったあたりは、司馬氏、鞍作氏の根拠地の一つを考えられている。この辺りはさらに奥に行くと南淵などの地名もあり、多くの渡来人が住み着いたところなのかもしれない。

 坂田寺跡の隅には、犬養孝揮毫の万葉歌碑が、ひっそりと立っている。歌碑には、「御食向かふ 南淵山の 巌には 降りしはだれか 消え残りたる」という柿本人麻呂が弓削皇子に奉った歌が万葉仮名で書かれている。
 
 

 御食向かふは、南淵山にかかる枕詞、巌は岩などが露出しているところ、はだれの雪は、ぱらぱらっと消え残っている雪のことである。この辺りは、飛鳥の古京からは外れた、奥まったところにあり、それだけに降った雪もところどころに残りやすくなっているのであろう。そういったところにグッと焦点を当てている歌である。冬枯れの田園風景の中にところどころに白い雪が残っている情景が目に浮かぶような気がする。

 南淵山は、坂田寺跡のある場所から東側に連なる山々を指している。残念ながら、写真を撮るのをきれいに忘れておりました。

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