そうだったのか 手塚 治虫 -天才が見抜いていた日本人の本質-
中野 晴行著 祥伝社新書
僕にしては珍しく、新刊書を買ってすぐ読了してしまった。手塚治虫フリークである僕としては読まざるを得ないものではあるのだが・・・。本書は、手塚治虫の作品群に中に日本人のアイデンティティの喪失と自分探しという観点から戦後の世相とからめて読み解いていこうというものである。
登場する作品は下記のとおりである。
「鉄腕アトム」 「メトロポリス」
「地底国の怪人」「ジャングル大帝」
「リボンの騎士」「ナスビ女王」
「来るべき世界」「ロック冒険記」
「ライオンブックス」
「フィルムは生きている」
「0マン」「魔神ガロン」「W3」
「バンパイア」「どろろ」
「人間ども集まれ」
「地球を呑む」「人間昆虫記」
「火の鳥」
「きりひと賛歌」「アポロの歌」
「ブッタ」「ブラックジャック」
「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」
「グリンコ」
以上26作品である。
アトムは、テレビでは無邪気なヒーローを演じているが、マンガの中では絶えず人間とロボットの狭間でコミュニケーション不全で葛藤しているアトムの姿が描かれていることがよくある。アトムはロボットでありながら単なるロボットではありえない、人間の心を持ったロボットなのである。そしてそのことは人間とロボットの間で絶えず揺れつづけることになる、つまりそれはアトムのいわば自分探しというものなのだろう。そしてその象徴的な場面が、力なく肩を落としているアトムの後姿なのではないだろうか。
アトムにしてもジャングル大帝にしても、最後は主人公の死で終わる。「自己犠牲」といっていい終わり方ではあるが、本書でもブラックジャックの章で少し触れられているが、「与える」ということが手塚治虫の作品で重要な意味を持っているのではないだろうか。
ここに挙げられている作品の中で唯一読み終えていないのが「グリンコ」である。ビックコミックに連載されていたのでだが、なんとなく読みすすめることのないまま今にいたっている。おそらくテーマはズバリ日本人とは何かということなのだろう。ちょうどバブルの最盛期であり、いきなり世界の表舞台に立つようになって戸惑っていた時代であろう。
日本人とはなんなのか?今に至るまで大きな問題ではある。日本人はアジアに属しながら、おそらく誰もアジア人とは思っていないだろう。そして欧米人かといえばそうでもない。日本人自身がそうだと思っていてもおそらく当事者の国は日本人を同じ人種だとは思っていないだろう。日本人はどっちの仲間にも入れないような状況なのである。
手塚治虫の直面していたアイデンティティの喪失といった問題は今に至っても続いている。そしてそれはこの国際社会の中で日本という国が受け入れられにくい状況を作り出しているような気がする。例えば国連の常任理事国入りにしても一体何するのって感じである。外国にしても一体何するつもりって感じでしょう。一体どんな国家になりたいのか、国際社会でどういったことをしたいのかきちっと内外に説明しないとわからないと思う。説明責任を果たしていくべきである。
相手に理解されようと思っているかなと不思議になる。逆に手塚治虫個人は自己承認の強い人だったようだから余計違和感があったのではないだろうかなんて思ったりします。
手塚治虫が死後15年もなるのに未だに読みつがれ、テレビ化されています。それは手塚作品が時代を先取りし、いつまでも色褪せないからでしょう。またそれは、今の漫画界がいろんなマンガがあるにせよ、手塚治虫を越えようとする漫画家がいないという状況のあらわれかもしれない。
手塚治虫の「ガチャポイ一代記」というマンガでマンガの神様が、外見は素晴らしい格好をしているが、実際はやせ細っていて、「今はいいマンガが少ないから太ることが出来ない。」と言って手塚治虫に活を入れるシーンがあるが、今も状況は変わっていないような気がする。
最後にブラックジャックの今回のアニメ化はなかなかイメージに近かったりして、好感を持ってみているのだが、時々ちょっとなあと思わせるストーリーの変更がある。特に鹿のナダレの話はあの終わり方はいかんでしょう。ナダレの怒りを受けとめないまま、ブラックジャックに救われた婚約者とにっこりでは、あんまりではないか。ちょっとブラックジャックの奇跡の腕を神格化しすぎていないかなあ。ブラックジャックの苦悩が表現できなくなるぞ。本間先生の遺言「人間が人の生死を左右できるなんておこがましいとは思わないか。」。これがブラックジャックの隠れたテーマであり、作品に深みが出来ているんだと考えているんだけどどうでしょう。
どうも手塚ファンの私としては本書に啓発され、書きたいことが多くなりまとまりにない状態になってしまった。う~む。
中野 晴行著 祥伝社新書
僕にしては珍しく、新刊書を買ってすぐ読了してしまった。手塚治虫フリークである僕としては読まざるを得ないものではあるのだが・・・。本書は、手塚治虫の作品群に中に日本人のアイデンティティの喪失と自分探しという観点から戦後の世相とからめて読み解いていこうというものである。
登場する作品は下記のとおりである。
「鉄腕アトム」 「メトロポリス」
「地底国の怪人」「ジャングル大帝」
「リボンの騎士」「ナスビ女王」
「来るべき世界」「ロック冒険記」
「ライオンブックス」
「フィルムは生きている」
「0マン」「魔神ガロン」「W3」
「バンパイア」「どろろ」
「人間ども集まれ」
「地球を呑む」「人間昆虫記」
「火の鳥」
「きりひと賛歌」「アポロの歌」
「ブッタ」「ブラックジャック」
「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」
「グリンコ」
以上26作品である。
アトムは、テレビでは無邪気なヒーローを演じているが、マンガの中では絶えず人間とロボットの狭間でコミュニケーション不全で葛藤しているアトムの姿が描かれていることがよくある。アトムはロボットでありながら単なるロボットではありえない、人間の心を持ったロボットなのである。そしてそのことは人間とロボットの間で絶えず揺れつづけることになる、つまりそれはアトムのいわば自分探しというものなのだろう。そしてその象徴的な場面が、力なく肩を落としているアトムの後姿なのではないだろうか。
アトムにしてもジャングル大帝にしても、最後は主人公の死で終わる。「自己犠牲」といっていい終わり方ではあるが、本書でもブラックジャックの章で少し触れられているが、「与える」ということが手塚治虫の作品で重要な意味を持っているのではないだろうか。
ここに挙げられている作品の中で唯一読み終えていないのが「グリンコ」である。ビックコミックに連載されていたのでだが、なんとなく読みすすめることのないまま今にいたっている。おそらくテーマはズバリ日本人とは何かということなのだろう。ちょうどバブルの最盛期であり、いきなり世界の表舞台に立つようになって戸惑っていた時代であろう。
日本人とはなんなのか?今に至るまで大きな問題ではある。日本人はアジアに属しながら、おそらく誰もアジア人とは思っていないだろう。そして欧米人かといえばそうでもない。日本人自身がそうだと思っていてもおそらく当事者の国は日本人を同じ人種だとは思っていないだろう。日本人はどっちの仲間にも入れないような状況なのである。
手塚治虫の直面していたアイデンティティの喪失といった問題は今に至っても続いている。そしてそれはこの国際社会の中で日本という国が受け入れられにくい状況を作り出しているような気がする。例えば国連の常任理事国入りにしても一体何するのって感じである。外国にしても一体何するつもりって感じでしょう。一体どんな国家になりたいのか、国際社会でどういったことをしたいのかきちっと内外に説明しないとわからないと思う。説明責任を果たしていくべきである。
相手に理解されようと思っているかなと不思議になる。逆に手塚治虫個人は自己承認の強い人だったようだから余計違和感があったのではないだろうかなんて思ったりします。
手塚治虫が死後15年もなるのに未だに読みつがれ、テレビ化されています。それは手塚作品が時代を先取りし、いつまでも色褪せないからでしょう。またそれは、今の漫画界がいろんなマンガがあるにせよ、手塚治虫を越えようとする漫画家がいないという状況のあらわれかもしれない。
手塚治虫の「ガチャポイ一代記」というマンガでマンガの神様が、外見は素晴らしい格好をしているが、実際はやせ細っていて、「今はいいマンガが少ないから太ることが出来ない。」と言って手塚治虫に活を入れるシーンがあるが、今も状況は変わっていないような気がする。
最後にブラックジャックの今回のアニメ化はなかなかイメージに近かったりして、好感を持ってみているのだが、時々ちょっとなあと思わせるストーリーの変更がある。特に鹿のナダレの話はあの終わり方はいかんでしょう。ナダレの怒りを受けとめないまま、ブラックジャックに救われた婚約者とにっこりでは、あんまりではないか。ちょっとブラックジャックの奇跡の腕を神格化しすぎていないかなあ。ブラックジャックの苦悩が表現できなくなるぞ。本間先生の遺言「人間が人の生死を左右できるなんておこがましいとは思わないか。」。これがブラックジャックの隠れたテーマであり、作品に深みが出来ているんだと考えているんだけどどうでしょう。
どうも手塚ファンの私としては本書に啓発され、書きたいことが多くなりまとまりにない状態になってしまった。う~む。
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