平成30年9月15日(土)
前回の説明会に引き続き、藤原宮大極殿院の北側の回廊部分の調査である。今回は、北側回廊の中央部を発掘し、北門の存在が明らかになっている。
今回の調査区は、藤原京跡の広場の北側、東西の道路とギリギリのところで実施されたため、北側の回廊部分の一番外側の柱列が検出されていない。おそらくは、道路の下あたりに埋まっているのであろう。
写真のピンクのビニールひもが回廊部分の柱列を示している。一部、礎石の下に置かれている根石の部分がハッキリと残っている。残念ながら、すでにどこかに運び去られており、全く残っていない。
根石が表面のところに残っているということは、後世の攪乱をかなり受けていて、基壇の上部は削り取られてしまっているのであろう。このことは、前回の現地説明会でも同様の指摘があった。
北側の回廊は、14尺(4.1m)間隔で作られており、北門のところだけ、16尺と他の部分と違った広さになっている。
ビニールひもの黄色の部分が北門の位置関係を示している。ほかの柱穴の間隔と少し違っている。その北門と直行する黄色いビニールひもは藤原宮の中軸である。そこから左右対称に宮域が構成されている。
また、北門については、南門のように正式な門ではなく、むしろ天皇のプライベートゾーンである内裏との行き来に使われる私的な門であるため、それほど立派なものでは無いようだ。
この中軸を中心に両側に南北溝1、2と南北溝3があるが、これが藤原宮に先行する朱雀大路の遺構である。この後に出てくる運河とともに、藤原宮造営以前のものである。たまたま、鬼頭清明氏の「木簡の社会史」という本を読み返していたところ、この遺構のことが少し紹介されていた、この運河のずっと南側の延長部分から木簡が多数出土しており、その木簡が天武天皇12年、13年を示していることから、藤原宮造営以前の遺構であることがわかっているだがこの溝の性格が謎とされていた。ずいぶん前の本だから、その後の研究の積み重ねから運河であろうということになったのであろう。運河の話は、この説明会でのちょっとしたツボではあった。
東西溝2は、回廊の基壇の裾をずっと基壇に沿ってある雨水排水用の溝。東西溝1も同様ではあるが、途中、運河のあたりで南北溝4と交わる形になっている。東西溝4は、基壇の下を暗渠となって残っていた様である。暗渠とするために瓦等を敷いている状態が検出されている。
そして、運河の遺構であるが、運河は、藤原宮の内庭の整備にあたって埋めてられ、礫が敷かれていたのだが、地盤沈下のため、二度にわたって礫が敷かれている。
上層礫敷と下層礫敷となっているのがそれである。肉眼で見ても、真ん中あたりが凹んでいるのがわかる。おそらく、この地盤沈下は、この運河の上に立っている大極殿や回廊部分にも影響を与えたはずで、早くも藤原宮の幾分か傾き始めていたのだろう。
そして、南北溝5は、回廊の基壇を断ち割って南北に貫通しており、基壇を造成した後のも、宮内の水の排水に苦慮した結果、無理矢理排水溝を造った後であろうと思われる。
藤原宮内の排水等にかなり苦慮した結果、藤原京はわずか16年間の都であったのかもしれない。ちなみに平城宮では、こういった部分は解消されているらしい。
宮内は、礫でしかれていたようだ。
今回の説明会、ただの柱穴だけの発掘ではなく、いろいろな意味で面白かった。藤原京が天武天皇の時代からどうやら造営され始めていたことや建物を建てた後、想定外の事態に四苦八苦していた様子がうかがえて興味深いものであった。
説明会終了後、藤原京跡の広場を歩いていると、ところどころに彼岸花が赤い花を咲かせていた。
暑い暑いと思っていたが、いつの間にか秋は忍び寄ってきていたのである。
来週の三連休はきっと満開であろうな。
前回の説明会に引き続き、藤原宮大極殿院の北側の回廊部分の調査である。今回は、北側回廊の中央部を発掘し、北門の存在が明らかになっている。
今回の調査区は、藤原京跡の広場の北側、東西の道路とギリギリのところで実施されたため、北側の回廊部分の一番外側の柱列が検出されていない。おそらくは、道路の下あたりに埋まっているのであろう。
写真のピンクのビニールひもが回廊部分の柱列を示している。一部、礎石の下に置かれている根石の部分がハッキリと残っている。残念ながら、すでにどこかに運び去られており、全く残っていない。
根石が表面のところに残っているということは、後世の攪乱をかなり受けていて、基壇の上部は削り取られてしまっているのであろう。このことは、前回の現地説明会でも同様の指摘があった。
北側の回廊は、14尺(4.1m)間隔で作られており、北門のところだけ、16尺と他の部分と違った広さになっている。
ビニールひもの黄色の部分が北門の位置関係を示している。ほかの柱穴の間隔と少し違っている。その北門と直行する黄色いビニールひもは藤原宮の中軸である。そこから左右対称に宮域が構成されている。
また、北門については、南門のように正式な門ではなく、むしろ天皇のプライベートゾーンである内裏との行き来に使われる私的な門であるため、それほど立派なものでは無いようだ。
この中軸を中心に両側に南北溝1、2と南北溝3があるが、これが藤原宮に先行する朱雀大路の遺構である。この後に出てくる運河とともに、藤原宮造営以前のものである。たまたま、鬼頭清明氏の「木簡の社会史」という本を読み返していたところ、この遺構のことが少し紹介されていた、この運河のずっと南側の延長部分から木簡が多数出土しており、その木簡が天武天皇12年、13年を示していることから、藤原宮造営以前の遺構であることがわかっているだがこの溝の性格が謎とされていた。ずいぶん前の本だから、その後の研究の積み重ねから運河であろうということになったのであろう。運河の話は、この説明会でのちょっとしたツボではあった。
東西溝2は、回廊の基壇の裾をずっと基壇に沿ってある雨水排水用の溝。東西溝1も同様ではあるが、途中、運河のあたりで南北溝4と交わる形になっている。東西溝4は、基壇の下を暗渠となって残っていた様である。暗渠とするために瓦等を敷いている状態が検出されている。
そして、運河の遺構であるが、運河は、藤原宮の内庭の整備にあたって埋めてられ、礫が敷かれていたのだが、地盤沈下のため、二度にわたって礫が敷かれている。
上層礫敷と下層礫敷となっているのがそれである。肉眼で見ても、真ん中あたりが凹んでいるのがわかる。おそらく、この地盤沈下は、この運河の上に立っている大極殿や回廊部分にも影響を与えたはずで、早くも藤原宮の幾分か傾き始めていたのだろう。
そして、南北溝5は、回廊の基壇を断ち割って南北に貫通しており、基壇を造成した後のも、宮内の水の排水に苦慮した結果、無理矢理排水溝を造った後であろうと思われる。
藤原宮内の排水等にかなり苦慮した結果、藤原京はわずか16年間の都であったのかもしれない。ちなみに平城宮では、こういった部分は解消されているらしい。
宮内は、礫でしかれていたようだ。
今回の説明会、ただの柱穴だけの発掘ではなく、いろいろな意味で面白かった。藤原京が天武天皇の時代からどうやら造営され始めていたことや建物を建てた後、想定外の事態に四苦八苦していた様子がうかがえて興味深いものであった。
説明会終了後、藤原京跡の広場を歩いていると、ところどころに彼岸花が赤い花を咲かせていた。
暑い暑いと思っていたが、いつの間にか秋は忍び寄ってきていたのである。
来週の三連休はきっと満開であろうな。
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