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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

大坂城二の丸大手口発掘調査 現地説明会

2015-07-05 22:18:56 | 現地説明会
 少し前の桜の季節の頃になるが、大阪城公園の西側、大阪府警と大阪府庁の間にある重粒子線がん治療施設予定地にて豊臣期の大坂城の堀に一部が発掘され、その現地説明会が開催された。今回、発掘された大坂城二の丸大手口を囲む堀については、以前、大阪府警庁舎が建設されたときに発掘された堀の遺構の続きだと考えられている。



 今回、発掘された堀の遺構については、豊臣期に造られた堀が、大坂冬の陣の後、徳川方により埋め立てられ、大坂城の落城後は、さらに堀を覆い隠すように盛り土がされている。その際、堀の上辺部とともに周辺の土砂も削っていて、豊臣期の地面は全く残っていないらしい。

 

 また、堀自体には、石垣が築かれておらず、粘土がむき出しになっていて、堀の底には堀障子というものが設けられていた。堀障子というのは、堀の底をすべてきれいに掘りだすのではなく掘りのこしを障害物のようにしたもので、堀の中に入った敵を動きにくくするための工夫だそうだ。

 

 また、堀に隣接して、廃材などが捨てられた落ち込みも見つかっている。

 

 この落ち込みには、徳川期の大坂城築造の際に廃棄された石材の他に、豊臣期の大坂城の石材と考えられるものも混じっている。

  

 写真には、大坂夏の陣の時、大坂城落城の際の火災により、その熱で石がはじけたと考えられるものもある。この落ち込み自体は、元和6年徳川大坂城築城に伴って堀削されたものであるらしい。落ち込みにはほかにも焼けてゆがんだ瓦や陶磁器が見つかっている。豊臣期の城郭を示す金箔の貼った瓦も出土している。

 

 これは、備前焼のすり鉢とのこと。

 

 入り口の所には、墨書で刻印がなされている石材が展示されていた。これについても、豊臣期の大坂城に用いられたものであるらしい。墨書で刻印するのは特徴なのだそうだ。

 この堀の内側には何があったのかというと、馬出曲輪ではなかったかと言われている。馬出曲輪というのは、城の出入口である虎口の前に曲輪を築いて防御力を高めたものである。この馬出曲輪については、豊臣秀吉死ぬ直前の慶長3年(1598)に築造されたと考えられている。
 このころの豊臣家の最重要課題は、いかにして嫡子である豊臣秀頼を守り抜くかということであり、それを具象化したのが大坂城であったと見ることができよう。しかし、これだけの防御力を持った城にいながら、ほとんどその機能を使うことなく落城させた豊臣方の首脳については、その能力を疑われても仕方がないような気がする。
 大坂城のこのような馬出曲輪については、このほかにも京橋口や玉造口などにもあったのではないかと言われている。

 大阪では、大坂夏の陣から400年ということでいくつかのキャンペーンが行われている。そのタイミングでこのような堀の遺構が見つかったことは、不思議な因縁を感じる気がした。

 豊臣期の大坂城の遺構としては、この調査地から北へ行ったところにあるドーンセンターの脇にも復元されたものが展示されている。説明会の時何度か話をされていたので実見しにいった。
 
 

 今の大坂城の石垣よりは古い形態の野面積みという工法で作られている。

 

 案内板には、大坂城三ノ丸の石垣となっている。実は、大坂城の三の丸については、あったのかなかったのか議論のあるところでもあるようだ。

 豊臣期の大坂城については、これからもいろいろと発見がありそうだ。楽しみである。

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