今年も早くも6がつも半ばとなり、梅雨に入り、じめじめとした毎日が続いている。そんな中、豊臣秀吉が築城した伏見城の跡が見つかったというニュースをネットで見つけ、6月20日には、現地説明会が開かれるという。近頃、現地説明会の参加にすっかりはまっている私としては、是非とも行かなくてはということで、JR、京阪電車を乗り継ぎ現地へ向かう。少し出遅れた感があったのだが、観月橋駅を出て、現地へ。現場についた時には長蛇の列が出来ており、1時間待ちだとのこと。
この日は、雨との予想であったが、あにはからんや、非常に日差しがきつく、特に説明会が開催されるのは、午後の1時から3時、これからはうだるような暑さとの戦いとなった。
伏見城(指月城)というのは、あまり聞かないと思っていたら、どうも豊臣秀吉が築城した伏見城については、初めに、1594年に築城された伏見城とその伏見城が1596年慶長伏見大地震によって倒壊し、その後再建された伏見城の2つあったのだという。そして、両者を区別するために、前者の方を、指月城、後者を木幡城と名付けられていた。指月城については、絵図等も残っていず、所在地すら確定されていなかったというのが現状であった。そういえばあんまり、本を読んでいてもその2つの伏見城について、触れているものも少ないような気がする。
さて、その伏見城であるが、豊臣秀吉が、関白を豊臣秀次に譲った後の隠居所が建てられたのが始まりである。本格的に築城が開始されたのは1594年であり、この時に秀頼が誕生しており、大坂城は秀頼の居城とする意図があったのかもしれない。1595年秀次事件の後、破却した聚楽第の建物なども移築されたのだという。そして、1596年の慶長伏見大地震により、倒壊することになる。
この時、秀吉は命からがら逃げ出し、東海を免れた台所で一夜を過ごしたともいわれている。城の中で生活をしていた大勢の人たちが亡くなっている。
その後、この指月城は放棄され、近くの木幡山に改めて城が築かれることになったという。なお、この木幡城については、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで大坂方の攻められ落城している。
屋外で並んで待つこと1時間、やっとこさ調査地の中で入ることができた。
熱中症で倒れた人がいなかったのが不思議なくらい暑かった。
敷地の中には、調査地で見つかった石垣に使われていた石が何となく無造作に置かれている。
説明をしてくれた方の話では、「これも立派な文化財なので、この後に建てられる予定のマンションのオブジェか何かに使って残してもらえれば・・・。」と話しておられた。
手前に堀があり、その奥に石垣の列が見える。石垣は、花崗岩や堆積岩で作られており、下段の1から2段が南北約36mにわたって検出されている。
石垣の手前には、犬走があり、その後ろに石垣の石があり、石垣の裏には、排水設備を兼ねた裏込めと言われる小さな石がはめ込まれている。穴太積みという積み方(穴太積みは、野ずら積みの一種)で作られているのではないかとのこと。京都の聚楽第の跡で発掘された石垣や豊臣期の大坂城の石垣と工法が似ているそうだ。
石垣は、現在、1段~2段しか残っていないが、説明では、3段はあったのではないか。そして主要な建物は石垣の向こう、東側に建っていたのではないか、また堀も、現在の底面は瓦を含む埋土であり、深さも現在の深さである2mよりも、深かったであろうと想定されている。
大きな石と石との間には、間詰石が置かれている。これも野面積みと言われる工法の特徴である。
これらの石垣については、伏見城(指月城)のごく一部ではあるけれども、指月城と呼ばれる前伏見城の所在が明らかになったということは大きい(と思う)。だいたい2つあったということを知らなかった人は多いはずである。
また、堀に西側にも建物の柱跡が見つかっており、何らかの建物が建っていたのではないかとのこと。だた、詳細は不明である。周辺からは金箔を張り付けた瓦が多く出土している。大坂城や聚楽第跡から出土しているものと酷似しているのだそうだ。このことからも、ここには、伏見城と考えられる建物が建っていたのであり、また、石垣や土に火災を示すものがないことから、指月城の跡であると断定されるに至っている。
最近、大坂城落城から400年ということからか、豊臣期の城の発掘調査の説明会が何となく多いような気がする。
そういう節目の時ということで注目されるので予算が付きやすいのかな。
伏見城(指月城)跡のある場所の地名は、泰長老という。珍しい地名だなということで調べてみると、安土桃山時代、この地に、西笑承兌(さいしょうじょうたい)という豊臣秀吉の外交顧問を務めていた僧侶の屋敷があり、その僧侶が、泰長老とも呼ばれていたことから、この辺りを泰長老というのだそうだ。
今回の調査地は、将来マンションが建設されることになっているそうだ。この遺跡は取り壊されてしまうのだろうか。敷地の端っこにあるから残せそうな気もするのだが・・・。どうなのだろう。
この日は、雨との予想であったが、あにはからんや、非常に日差しがきつく、特に説明会が開催されるのは、午後の1時から3時、これからはうだるような暑さとの戦いとなった。
伏見城(指月城)というのは、あまり聞かないと思っていたら、どうも豊臣秀吉が築城した伏見城については、初めに、1594年に築城された伏見城とその伏見城が1596年慶長伏見大地震によって倒壊し、その後再建された伏見城の2つあったのだという。そして、両者を区別するために、前者の方を、指月城、後者を木幡城と名付けられていた。指月城については、絵図等も残っていず、所在地すら確定されていなかったというのが現状であった。そういえばあんまり、本を読んでいてもその2つの伏見城について、触れているものも少ないような気がする。
さて、その伏見城であるが、豊臣秀吉が、関白を豊臣秀次に譲った後の隠居所が建てられたのが始まりである。本格的に築城が開始されたのは1594年であり、この時に秀頼が誕生しており、大坂城は秀頼の居城とする意図があったのかもしれない。1595年秀次事件の後、破却した聚楽第の建物なども移築されたのだという。そして、1596年の慶長伏見大地震により、倒壊することになる。
この時、秀吉は命からがら逃げ出し、東海を免れた台所で一夜を過ごしたともいわれている。城の中で生活をしていた大勢の人たちが亡くなっている。
その後、この指月城は放棄され、近くの木幡山に改めて城が築かれることになったという。なお、この木幡城については、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで大坂方の攻められ落城している。
屋外で並んで待つこと1時間、やっとこさ調査地の中で入ることができた。
熱中症で倒れた人がいなかったのが不思議なくらい暑かった。
敷地の中には、調査地で見つかった石垣に使われていた石が何となく無造作に置かれている。
説明をしてくれた方の話では、「これも立派な文化財なので、この後に建てられる予定のマンションのオブジェか何かに使って残してもらえれば・・・。」と話しておられた。
手前に堀があり、その奥に石垣の列が見える。石垣は、花崗岩や堆積岩で作られており、下段の1から2段が南北約36mにわたって検出されている。
石垣の手前には、犬走があり、その後ろに石垣の石があり、石垣の裏には、排水設備を兼ねた裏込めと言われる小さな石がはめ込まれている。穴太積みという積み方(穴太積みは、野ずら積みの一種)で作られているのではないかとのこと。京都の聚楽第の跡で発掘された石垣や豊臣期の大坂城の石垣と工法が似ているそうだ。
石垣は、現在、1段~2段しか残っていないが、説明では、3段はあったのではないか。そして主要な建物は石垣の向こう、東側に建っていたのではないか、また堀も、現在の底面は瓦を含む埋土であり、深さも現在の深さである2mよりも、深かったであろうと想定されている。
大きな石と石との間には、間詰石が置かれている。これも野面積みと言われる工法の特徴である。
これらの石垣については、伏見城(指月城)のごく一部ではあるけれども、指月城と呼ばれる前伏見城の所在が明らかになったということは大きい(と思う)。だいたい2つあったということを知らなかった人は多いはずである。
また、堀に西側にも建物の柱跡が見つかっており、何らかの建物が建っていたのではないかとのこと。だた、詳細は不明である。周辺からは金箔を張り付けた瓦が多く出土している。大坂城や聚楽第跡から出土しているものと酷似しているのだそうだ。このことからも、ここには、伏見城と考えられる建物が建っていたのであり、また、石垣や土に火災を示すものがないことから、指月城の跡であると断定されるに至っている。
最近、大坂城落城から400年ということからか、豊臣期の城の発掘調査の説明会が何となく多いような気がする。
そういう節目の時ということで注目されるので予算が付きやすいのかな。
伏見城(指月城)跡のある場所の地名は、泰長老という。珍しい地名だなということで調べてみると、安土桃山時代、この地に、西笑承兌(さいしょうじょうたい)という豊臣秀吉の外交顧問を務めていた僧侶の屋敷があり、その僧侶が、泰長老とも呼ばれていたことから、この辺りを泰長老というのだそうだ。
今回の調査地は、将来マンションが建設されることになっているそうだ。この遺跡は取り壊されてしまうのだろうか。敷地の端っこにあるから残せそうな気もするのだが・・・。どうなのだろう。
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