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もうだいぶ前になってしまいましたが、奈良県は明日香村にて行われた飛鳥京跡苑池第10次調査の現地説明会に参加してきた。当日は、朝から雨模様、どうしょうかなと思いつつも家に居ても仕方ないし、気晴らしにということで、近鉄電車に乗って乗って乗って岡寺駅から雨の中歩いて現地へ。現地に着くころには、雨も小雨になってきた。雨というのに、すでに多くの方が来られていた。こんな足元もあるい天気の日にわざわざ来られているのだから熱心な方々なんだろうなと思う。
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飛鳥京跡苑池遺跡については、平成10年に発掘調査にてその存在が確認されてから、今年で第10次の発掘調査になる。
今回の調査では、苑池の門と考える掘立柱跡とそれに取り付く掘立塀跡が検出されている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/e0/6e54d1539539a94ed7eb84d6dba338b9.jpg)
掘立柱の建物は、南北で4間(10.8m)、東西2間(5.4m)の規模であり、発掘時にはすでに解体されて残っていなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/44/89b936e1173ab99539f9a9b44e1ba3e2.jpg)
上の写真でみてのごとく、掘立柱建物跡の位置が、すでに検出されている苑池の北池と南池の間にある渡殿の延長線上にあることから、この苑池跡の中に入る門ではなかったのかと考えられている。門といっても横幅10メートルもあるのだからかなり立派な門であったのだろうと思われている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/f1/03a76bac21909b82d3c4cbf6e2021a15.jpg)
写真は、柱穴のアップである。
そして、この門に取り付く形で両側に掘立柱塀が建っていたと考えられている。この塀については、これまでの発掘調査から、今回の調査区からずっと続いていて、この苑池を取り囲んでいて、全長は130mにも及ぶそうである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/82/8a2cfc4acbcb844e9c025bb09cc344cb.jpg)
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今回の現地説明会では、調査区域を見やすくするためか、少し高台みたいなものも設けられていた。(発掘調査で、掘り出された残土を利用したのかな。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/b0/fbe7a05e004ed613642e55bd96a0f3d0.jpg)
高台から、苑池の方を望む。苑池自体はすでの埋め戻されていて原っぱになっている。南池とか渡殿と書いた標識が草の中にかすかに見える。この飛鳥京跡苑池についても、いずれ、発掘調査が終了後は、整備されていくのだろうと思う。
この飛鳥京跡苑池については、日本書紀の天武14年に出てくる「白錦後苑」の可能性が高く、斉明天皇の時に造営が始められ、天武天皇の時に整備されたのではと考えられている。この遺構の北では、出水の酒船石と言われる石造物がかつて見つかっており、その遺構とも接続しているようである。
また、この飛鳥京跡苑池の遺構とほぼ隣接して、伝飛鳥板葺宮跡の遺構がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/b7/5b09fcdf5119d2cdc85aa5d993370fd2.jpg)
伝飛鳥板葺宮跡については、現在は、天武天皇の飛鳥浄御原宮跡、斉明天皇の後岡本宮跡といった宮跡が重層になっている遺跡と考えられている。この飛鳥池苑池の北側には、少し行くと飛鳥時代の時計台と考えられる水落遺跡や飛鳥寺などがあり、飛鳥時代には、この地が一大文化センターだったんだろうと思われる。そう考えると雄大なロマンがある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/3c/f8d7305d0d2c44fb30bbc0ad44b92002.jpg)
その一方で、現在のように一面に広がる水田の風景も、悠久の時代を感じさせ、また、四季様々な色彩を見せてくれる美しい日本の原風景である。大切にしたい風景でもある。
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飛鳥京跡苑池遺跡については、平成10年に発掘調査にてその存在が確認されてから、今年で第10次の発掘調査になる。
今回の調査では、苑池の門と考える掘立柱跡とそれに取り付く掘立塀跡が検出されている
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掘立柱の建物は、南北で4間(10.8m)、東西2間(5.4m)の規模であり、発掘時にはすでに解体されて残っていなかった。
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上の写真でみてのごとく、掘立柱建物跡の位置が、すでに検出されている苑池の北池と南池の間にある渡殿の延長線上にあることから、この苑池跡の中に入る門ではなかったのかと考えられている。門といっても横幅10メートルもあるのだからかなり立派な門であったのだろうと思われている。
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写真は、柱穴のアップである。
そして、この門に取り付く形で両側に掘立柱塀が建っていたと考えられている。この塀については、これまでの発掘調査から、今回の調査区からずっと続いていて、この苑池を取り囲んでいて、全長は130mにも及ぶそうである。
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今回の現地説明会では、調査区域を見やすくするためか、少し高台みたいなものも設けられていた。(発掘調査で、掘り出された残土を利用したのかな。)
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高台から、苑池の方を望む。苑池自体はすでの埋め戻されていて原っぱになっている。南池とか渡殿と書いた標識が草の中にかすかに見える。この飛鳥京跡苑池についても、いずれ、発掘調査が終了後は、整備されていくのだろうと思う。
この飛鳥京跡苑池については、日本書紀の天武14年に出てくる「白錦後苑」の可能性が高く、斉明天皇の時に造営が始められ、天武天皇の時に整備されたのではと考えられている。この遺構の北では、出水の酒船石と言われる石造物がかつて見つかっており、その遺構とも接続しているようである。
また、この飛鳥京跡苑池の遺構とほぼ隣接して、伝飛鳥板葺宮跡の遺構がある。
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伝飛鳥板葺宮跡については、現在は、天武天皇の飛鳥浄御原宮跡、斉明天皇の後岡本宮跡といった宮跡が重層になっている遺跡と考えられている。この飛鳥池苑池の北側には、少し行くと飛鳥時代の時計台と考えられる水落遺跡や飛鳥寺などがあり、飛鳥時代には、この地が一大文化センターだったんだろうと思われる。そう考えると雄大なロマンがある。
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その一方で、現在のように一面に広がる水田の風景も、悠久の時代を感じさせ、また、四季様々な色彩を見せてくれる美しい日本の原風景である。大切にしたい風景でもある。
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