近鉄の石切駅から北へ山手幼稚園を過ぎてさらに行ったところに日下新池というため池がある。
別名天女が池とも呼ばれ、春の時期は、桜の名所として地元ではよく知られている場所であるらしい。
この場所を訪れたときは、春も終わりの時期であったか、池の端には桜の花がいくらか残っていた。大正時代には、この辺りには日下遊園地というものが開かれ、温泉や旅館などがあり大いに賑わったらしい。
残っていた桜を眺めて、池の堤を歩いているうちに、池の北に石垣があるのに目が止まった。近づいてみると「孔舎衙健康道場跡」と太宰治と書かれた説明板が立てられていた。
大阪で太宰治とは珍しい。太宰治というとどうしても東京か津軽のイメージがあり、あまり関西とはかかわりがなさそうである。
説明を読んでみると、戦前、ここにあった遊園地の後に、孔舎衙健康道場なる結核患者の療養施設が建てられ、その健康道場で療養していた太宰治と親交があった木村庄助という者の病床日記を木村の死後に贈られ、その日記をもとに「パンドラの匣」という小説を書いたとある。
「パンドラの匣」は、戦後すぐの1945年に河北新報という地方紙に翌年にかけて連載された小説で、1946年以河北新報社から刊行されている。もとは戦中に「雲雀の声」という名でいったん書き上げられたのだが、戦災のため発刊前の本が全焼し、その時の校正本をもとに新たに書きあげられたという稀有なエピソードのある小説である。現在は、新潮文庫で読むことができる。
太宰治というと、「斜陽」「人間失格」などのイメージを引きずって、どうも暗い、とっつきにくい小説のように思うのだが、このころの作品は、結構明るい健康的なものが多く、この小説もそうである。
健康道場という療養所に入所したひばりとあだ名された20歳の青年と、そこでの生活や療養してる患者や若い看護師たちとの交流を友人にあてた書簡という体裁をとった小説であり、恋愛小説とも読める。
小説の中に、この場所を思わせるような描写は残念なことにない。
そして、この石垣の上に平らに整地され場所があり、石灯籠があるのがその名残なのか?灯籠の穴には「パンドラの丘」と書かれている。
この辺りは、「パンドラの丘」と名付けられて、地元の人が清掃等きれいにしておられるのだそうだ。ギリシャ神話のパンドラの箱には、最後希望が残ったとされる。遊園地や健康道場は無くなったが、最後、地域の人たちの手元には、未来への希望が残っているというときれいすぎるか。
ひょんなことから思わぬものを見つけた。ラッキーだった。
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