天王寺というと、大阪はなにわの繁華街の代表的な場所であり、人の波でごっちゃしているところというイメージがあるのだが、まだまだ歴史的な風情のある場所が残っている。今回は、天王寺界隈にある名所を歩いてみることにした。
松屋町筋を歩いていくと、いくつか台地を登る坂がある俗に天王寺七坂と呼ばれ、お寺の間を抜ける石畳の坂道が、大阪的な文学イメージが想起させる。遊び好きな若旦那としっかり者の嫁さんがそこを歩いているような気になる。そうした天王寺の七坂の一つ愛染坂を登っていくと、左手に朱塗りの薬医門が建っている。これが愛染さんという通称で知られる勝鬘院愛染堂である。
昔から、「愛染かつら」という著名な映画の舞台になったところだと聞かされていたのだが、実はどんな映画だったのかは、全く知らない。調べてみると、この近くに住んでいた川口松太郎の小説を映画化した作品であり、最初の映画化は1938年、当時は、上原謙と田中絹代の主演で大変好評だったらしい。その後も何度か映画やドラマになっている。驚いたことに、漫画やアニメで人気だった「じゃりン子チエ」の主人公、チエちゃんが、よく掃除をしながら「花も嵐も踏み越えて」と歌っているのは、この「愛染かつら」の主題歌だったのである。知らぬとは恐ろしいことである。
ちなみに、愛染堂の境内には、愛染かつらの木がひっそりと立っている。恋愛成就の霊木であるそうな。
愛染明王を本尊としている金堂がある。江戸時代二代将軍徳川秀忠より寄進されたと伝わる。ちなみに金堂は大阪府の指定文化財になっている。
愛染明王とは、人間の愛欲を浄化させ悟りへと導く考えを現した仏様で、このことが転じて恋愛成就の仏様とされている。そしてこの仏様が「愛染さん」という愛称の由来である。
愛染堂で見物なのは、金堂の裏にある木造多宝塔である。
大阪市内で最古の木造建築と言われ、豊臣秀吉の寄進と伝えられる。建物の柱などをよく見てみると彩色の跡が見て取れる。おそらく創建時にはもっとあでやかな塔だったのだろう。といっても建物の形が非常に秀麗で美しい。
初層の蟇股には十二支が刻まれているとのこと。写真ではちょっと小さくてわかりにくいか。
その上の上層部の和様建築の斗栱の姿が重厚でかっこいい。街中にあるにもかかわらず、周囲に高い建物もないため、ピンとして独り立ちしているように見える。
その姿は、なかなかの男前である。
勝鬘院は、聖徳太子が、この地の施薬院を建てたことに始まるという。その後、この地で勝鬘経というお経を講じたことから、勝鬘院と呼ばれるようになったという。創建時はもっと大きい建物であったと伝えられている。
この日は、天気も良かったためか、このお寺の境内や門前に写生をしている人が多かった。それだけ絵になる場所なのであろう。
松屋町筋を歩いていくと、いくつか台地を登る坂がある俗に天王寺七坂と呼ばれ、お寺の間を抜ける石畳の坂道が、大阪的な文学イメージが想起させる。遊び好きな若旦那としっかり者の嫁さんがそこを歩いているような気になる。そうした天王寺の七坂の一つ愛染坂を登っていくと、左手に朱塗りの薬医門が建っている。これが愛染さんという通称で知られる勝鬘院愛染堂である。
昔から、「愛染かつら」という著名な映画の舞台になったところだと聞かされていたのだが、実はどんな映画だったのかは、全く知らない。調べてみると、この近くに住んでいた川口松太郎の小説を映画化した作品であり、最初の映画化は1938年、当時は、上原謙と田中絹代の主演で大変好評だったらしい。その後も何度か映画やドラマになっている。驚いたことに、漫画やアニメで人気だった「じゃりン子チエ」の主人公、チエちゃんが、よく掃除をしながら「花も嵐も踏み越えて」と歌っているのは、この「愛染かつら」の主題歌だったのである。知らぬとは恐ろしいことである。
ちなみに、愛染堂の境内には、愛染かつらの木がひっそりと立っている。恋愛成就の霊木であるそうな。
愛染明王を本尊としている金堂がある。江戸時代二代将軍徳川秀忠より寄進されたと伝わる。ちなみに金堂は大阪府の指定文化財になっている。
愛染明王とは、人間の愛欲を浄化させ悟りへと導く考えを現した仏様で、このことが転じて恋愛成就の仏様とされている。そしてこの仏様が「愛染さん」という愛称の由来である。
愛染堂で見物なのは、金堂の裏にある木造多宝塔である。
大阪市内で最古の木造建築と言われ、豊臣秀吉の寄進と伝えられる。建物の柱などをよく見てみると彩色の跡が見て取れる。おそらく創建時にはもっとあでやかな塔だったのだろう。といっても建物の形が非常に秀麗で美しい。
初層の蟇股には十二支が刻まれているとのこと。写真ではちょっと小さくてわかりにくいか。
その上の上層部の和様建築の斗栱の姿が重厚でかっこいい。街中にあるにもかかわらず、周囲に高い建物もないため、ピンとして独り立ちしているように見える。
その姿は、なかなかの男前である。
勝鬘院は、聖徳太子が、この地の施薬院を建てたことに始まるという。その後、この地で勝鬘経というお経を講じたことから、勝鬘院と呼ばれるようになったという。創建時はもっと大きい建物であったと伝えられている。
この日は、天気も良かったためか、このお寺の境内や門前に写生をしている人が多かった。それだけ絵になる場所なのであろう。
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