橿原神宮前駅から東へ真っすぐ、和田などの集落を通って、20分から30分ほど歩いていくと飛鳥川に出る。
その飛鳥川を渡っていくと、雷の集落に出る。雷と書いたコミュニティバスのバス停の後ろに控える小さな丘が、雷丘である。おそらく、この道が昔の山田道であろう。
雷丘については、日本霊異記などに、雄略天皇のころ、小子部栖軽が天皇の命を受け、この地で雷神を捕まえたことから雷丘と呼ばれたという地名起源説話が記されている。近くに行ってみると、10数mほどの小さな丘であり、雷丘という名称からくるイメージほどのものもない。柿本人麻呂は、「大君は神にしませば天雲の雷の上に庵りせるかも」という一首を読んでいる。天雲の雷などと歌われていると、どれだけ大きな丘なのだろうと思う。「万葉の旅」の中で、どこにでもある丘で驚いてしまうが、小さい丘でもこのように表現してしまう人時代気運を背負った人麻呂の心のうねりを見て取れると書かれている。柿本人麻呂が、大君とした天皇は、天武天皇か持統天皇のいずれかぐらいであろう。ちょうど日本の国家が伸び盛りである時代である。そういう時代の精神を背負っていたということでなんだろう。
雷丘には、雷丘の説明板のわきから丘に登るルートが確保されている。結構急な坂道になっている。
丘の上に登ってみると、平坦地になっていて、樹々が視界を遮ってあまり眺望がきかない。
うろうろと動き回ってみると、丘の上に南北に空堀の跡とも思える溝が走っている。その時は、ダブルマウントだなあ。双円墳みたいと思っていたが、もしかしたら、東側の丘の上が平坦になっていて堀があるってもしかしたら山城の跡なんじゃないということで調べてみると、そうでした。雷城と呼ばれる中世の山城がここに築かれており、一番高いところが、主郭があり、空堀を挟んで西側に副郭になっているらしい。ただ、この雷城を築いた人まではわからない。古代以降の明日香の歴史は意外と知らなかったりする。
雷丘を下って、丘のすぐ東に接している県道を少し北へ行くと、先ほどの、「大君は神にしませば・・・」の万葉歌碑が建っている。
この歌では、大君が、雨雲の中を鳴りとどろく雷の上にさえ庵をなされるを歌っており、丘の上にそういった遺構があることが期待されるのだが、残念ながら雷丘自体が中世の雷城の築城の際にかなりの改変を受けており、古代の遺構等はこの時にほとんど削平されてしまったと考えられている。
ただ、平成17年に行われた発掘調査では、5世紀後半から6世紀後半の古墳群が存在した可能性を示す円筒埴輪の破片が多数出土しており、また7世紀代の石室とみられる遺構が見つかっている。日本霊異記の説話では、小子部栖軽は、死後この雷丘に埋葬されたとされている。その説話と時代が合致するような遺構がわずかでも見つかっていることが興味深い。
そして雷丘の東方には、推古天皇期の小治田宮のものではないかと想定される遺構が見つかっている。今後、この近くからどんな遺跡が見つかるのか楽しみである。
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