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橿原神宮前駅から東へ、剣池の横を通って歩いていく。まだ、剣池の堤防の上が桜並木になっているのだが、まだまだ三分咲きといったところ。満開になるのにはあと少しかかりそうな感じであった。
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池のほとりにある孝元天皇陵と伝えられる丘が池の水面にうつってなかなかいい感じである。もう少しして桜の花が満開になれば美しい景色は見れそうな気がする。さて、剣池からさらに東へ行くと、少し風景が変わってくる。農村的な感じになり、住宅ではなく、田園風景が目の前に広がってくる。道路のわきには明日香村という道路標識が立っている。
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明日香村の和田の集落から豊浦の集落へ入ると、豊浦のバス停があり、その奥はバスなんかも駐車できるような大きな駐車場になっている。村営の駐車場なのかな。その駐車場の東奥に古宮遺跡(小墾田宮伝承地)と書かれた案内板が立てられている。
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小墾田宮は、推古天皇の宮と伝えられ、最初の豊浦宮から推古天皇12年(603年)に遷宮し、推古天皇が崩御するまで、この宮に居住していた。およそ、推古天皇の治世の重要政策である冠位十二階や十七条の憲法、遣隋使の派遣などがこの宮の時代に行われている。
また、小墾田宮の宮殿の構成としては、南門があり、その北に朝庭が広がり、その左右には、庁(朝堂)が立ち並び、その奥に大門があり、天皇が座する大殿があったと考えられており、のちの藤原宮や平城宮などの宮殿の原型となったと考えられている。
また、奈良時代の後半の淳仁天皇・称徳天皇の時代には、小墾田宮に行宮が置かれていた。
そして、この古宮基壇を中心とした古宮遺跡が、飛鳥時代の瓦や金銅製四環壺がこの地から出土したことから、小墾田宮があった場所と長らく伝えられてきた。
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しかし、1987年に雷丘東方遺跡から「小治田宮」と墨書された土器が多数出土したことから、小墾田宮については、雷丘東方遺跡にあったと考えられるようになっている。ただ、古宮遺跡からも、7世紀前半と考えられる大溝や庭園、掘立柱建物の跡が検出されており、飛鳥時代の有力者の邸宅跡と考えられることから、豊浦大臣と呼ばれた蘇我蝦夷の邸宅跡という説もある。
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これらの邸宅跡の遺構は、現在は水田の下の埋め戻されている。
明日香村の各地で現在も発掘調査が増されている。これからも、私たちが習った歴史が塗り替えられるような発見がまだまだ出てきそうである。
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池のほとりにある孝元天皇陵と伝えられる丘が池の水面にうつってなかなかいい感じである。もう少しして桜の花が満開になれば美しい景色は見れそうな気がする。さて、剣池からさらに東へ行くと、少し風景が変わってくる。農村的な感じになり、住宅ではなく、田園風景が目の前に広がってくる。道路のわきには明日香村という道路標識が立っている。
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明日香村の和田の集落から豊浦の集落へ入ると、豊浦のバス停があり、その奥はバスなんかも駐車できるような大きな駐車場になっている。村営の駐車場なのかな。その駐車場の東奥に古宮遺跡(小墾田宮伝承地)と書かれた案内板が立てられている。
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小墾田宮は、推古天皇の宮と伝えられ、最初の豊浦宮から推古天皇12年(603年)に遷宮し、推古天皇が崩御するまで、この宮に居住していた。およそ、推古天皇の治世の重要政策である冠位十二階や十七条の憲法、遣隋使の派遣などがこの宮の時代に行われている。
また、小墾田宮の宮殿の構成としては、南門があり、その北に朝庭が広がり、その左右には、庁(朝堂)が立ち並び、その奥に大門があり、天皇が座する大殿があったと考えられており、のちの藤原宮や平城宮などの宮殿の原型となったと考えられている。
また、奈良時代の後半の淳仁天皇・称徳天皇の時代には、小墾田宮に行宮が置かれていた。
そして、この古宮基壇を中心とした古宮遺跡が、飛鳥時代の瓦や金銅製四環壺がこの地から出土したことから、小墾田宮があった場所と長らく伝えられてきた。
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これらの邸宅跡の遺構は、現在は水田の下の埋め戻されている。
明日香村の各地で現在も発掘調査が増されている。これからも、私たちが習った歴史が塗り替えられるような発見がまだまだ出てきそうである。
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