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奈良の大文字送り火が行われる高円山の麓に百毫寺と呼ばれる古刹がある。秋、萩の花が咲くころは観光客で賑わうようだが、訪れた時は萩の花も終わるころで訪れる人もまばらであった。
山門をくぐると、長い石段の両側に萩が植えられており、花の季節はさぞかし花の道となって美しかっただろうことを想像できる。
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さて、白毫寺は、天智天皇の皇子である志貴皇子の山荘を、死後天皇の勅願により寺院と改めたものと伝わっており、ちょうど志貴皇子の命日ということで志貴親王御忌の日であった。
そう大きくない境内には、本堂、御影堂、宝蔵などがあり、本堂に上がってお参りすることができる。
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また、本堂の裏側には、宝蔵があり、中に入って、閻魔王や太山王、司命、司録などの冥界をつかさどる十王たちの木造を拝見できる。いずれも鎌倉時代の優品で、閻魔王の厳しい表情には非常にインパクトがあった。本尊である阿弥陀如来坐像や閻魔王坐像などいずれも国の重要文化財の指定を受けている。
小さいころ、悪いことをしたときや嘘をついたときなど閻魔さんに舌を抜かれるなどと言われて、大人たちに怖がらせられていたけど、今、そんなこと言わんよねえ。たぶん、閻魔さんと言われて怖がる子どもはもはやいないかもしれないなあと時代の流れを感じてしまった。
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宝蔵と御影堂の間にも、萩があり、ここは少し花が残っていた。写真に撮ってみたが、どうも雑草のようにしか見えない。(笑)
境内の南隅に、小さな万葉歌碑が置かれている。歌碑には、「高円の野辺の秋萩いたづらに 咲きか散るらむ見る人なしに」という笠金村の歌が刻まれている。笠金村は、万葉集に45首採録されている歌人であるが、あまり詳しい事績等は知られていない。志貴皇子の葬送をうたった長歌をうたっており、その反歌としてうたわれたものである。高円の山荘で亡くなった志貴皇子を送っていくとき、路傍には萩の花が咲いている。もうこの家の主はいなくなったのに、むなしく咲いている萩の花の様子を、自らの心を仮託して詠んだ歌なのだろう。野辺送りが終わった後、ふと皇子が住んでいたところを見ると、小さな萩の花がいつものように咲いている、主がいた頃を憶い出されて一層主のいない家の寂しさが深まってくるという感じなのだろうか。
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ちなみに、志貴皇子自身も、万葉集に6首収められており、その中でも「石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」や「采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」といった歌は、おそらく万葉集の中でもよく知られた歌であろうと思う。志貴皇子は、天智天皇の皇子とはいえ、生きていたころは、皇位とは縁のない位置にいたと思われるが、志貴皇子の子である白壁王が皇位につき、光仁天皇と呼ばれる奈良時代最後に天皇となった。この皇統は、現在の天皇家にまで続いていくのだから、歴史はわからない。孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇といった天武天皇系の天皇や皇子のドタバタは、天智天皇系の光仁天皇を生み出して収束するのである。何とも皮肉なものである。
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白毫寺には、そのほかにも大和の三名椿の一つ五色椿がある。当然、この時期は咲いていない。とはいえ椿の根元の石仏が何となく可愛げがあった。
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境内には、石仏も多く置かれており、庶民の信仰の場ともなっていたのであろうか?
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最後に、白毫寺の境内からは、奈良市街を一望できる。興福寺の五重塔や東大寺の大仏殿はもとより、遠くは生駒山の方まで見ることができた。この日は天気が良くなかったので、あまり遠望が効かなかったのは少し残念であった。
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そして、ここに山荘を築いた志貴皇子の風流に思いを馳せつつ、白毫寺を後にした。
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