WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

アイク・ケベックのボサノヴァ・ソウル・サンバ

2006年08月03日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 24●

Ike Quebec   

Bossa Nova Soul Samba

Scan10010_1  夏……。ボサノヴァの季節。今日の二枚目、 夜聴くボサノヴァだ。一杯やりながら聴くボサノヴァだ。アイク・ケベックのテナーは、どこまでも優しい。中音域を中心とした柔らかい音だ。疲れた身体を優しくいたわるように、ソフトでブルージーなサウンドが私を包んでくれる。

 アイク・ケベックは、1940年代に活躍したテナーマンだ。途中、薬におぼれたり、ブルーノートのスカウトをやったりして、ブランクがあったようだ。バド・パウエルもセロニアス・モンクも彼が発掘したアーティストらしい。1950年代末に復活して、ブルーノートに録音を残しているが、1963年肺ガンのためなくなった。このアルバムは1962年の録音、彼の最後の作品だ。

 アイク・ケベックは、すごく有名な人ではないが、このアルバムはなかなかの出来である。テナーの音色がすばらしい。柔らか、優しい、包み込むような、などの形容がつく音だ。しかし、このアルバムを"夜聴くボサノヴァ"にしているのは、ケニー・バレルのギターだ。一聴して、いかにもケニー・バレルとしかいいようのないギターが、夜の雰囲気をかもし出している。ケニー・バレルは、夜のギタリストだ(「ミッドナイト・ブルー」という作品があるほどだ)。すごく好きなギタリストではないが、何故かときどき聴く。そして、それは何故か夜だ。昼に聴くことはほとんどない。傍らには必ず酒がある。そんなギタリストだ。優しいテナーにブルージーなギターが絡みつく、これがこのアルバムの聴きどころだ。

 今夜はめずらしく時間のゆとりがある。夜はまだ長い。もう少し音楽を楽しむ時間がありそうだ。そして、私の前には何故か今日も酒がある。地酒「澤の泉」(特別純米)だ。


キャノンボール・アダレイのキャノンボールズ・ボサノヴァ

2006年08月03日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 23●

Cannonball Adderley  

Cannonball 's Bossa Nova

Scan10009_2  わが東北地方もやっと梅雨があけた。朝だ。外は光に溢れている。家々の屋根に朝日が反射してまぶしい。今日も暑くなりそうだ。そうだ、ボサノヴァを聴こう。そう思って取り出した今日の一枚は、キャノンボール・アダレイの1962年録音作品、キャノンボールズ・ボサノヴァだ。

 アルトサックスの音色はどこまでも艶やかで、よどみのないメロディーラインだ。キャノンボールは嬉しそうだ。アルバム全体が陽気な明るさに溢れ、音楽の喜びに満ちている。思えば、マイルス・ディヴィス・グループ時代のキャノンボールは苦しかったに違いない。モード奏法とか何とか、キャノンボールの手に余る音楽をやらされ、疲れ気味だったのではないだろうか。彼はそういうプレーヤーではないのだ。彼はいわゆる「呪われた部分」の音楽家ではない、けれども彼は、美しい音楽を美しいままに吹ききるナチュラルさをもっている。

 村上春樹の次の言はなかなかよく的をついているように思う。

《 キャノンボールという人は、最後にいたるまで、真にデーモニッシュな音楽を創り出すことはなかった。彼は自然児として地上に生まれ、そして自然児として生き抜いて、おおらかなままで消えていった。推敲や省察は、裏切りや解体や韜晦や眠れぬ夜は、この人の音楽の得意とするところではなかった。    しかし、、おそらくそれ故に、そのアポロン的に広大な哀しみは、ときとして、ほかの誰にもまねできないようなとくべつなやり方で、予期もせぬ場所で、我々の心を打つことになる。優しく赦し、そして静かに打つ。 》 (和田誠・村上春樹『ポートレート・イン・ジャズ』新潮文庫)

 キャノンボールはいつだって陽気だ。彼の吹くサックスの音色は、いつだって温かい。