WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

遠い夏休み……青春の太田裕美③

2006年08月26日 | 青春の太田裕美

Scan10005_3  アルバム『手作りの画集』収録の「遠い夏休み」。"いまでもファン"の多くが支持する名曲である。もちろん、私も大好きだ。日本的な哀愁を帯びた旋律、古き良き(?)日本の情景を思い出させる歌詞。思わずジンときて、涙腺が緩みそうになる。

 しかし、歌詞の描く世界が妙に遠くに感じるのはどうしたことだろう。「ランニングシャツ」「小川で沢ガニ」「夕焼け道」などのことばは、現代の生活の中ではリアリティーが薄くなってしまったのではなかろうか。おそらく、ある年代以下の人間にはもはやイメージできない情景だろう。「カタコト首振る古扇風機」「線香花火に浮かんだ顔」「(髪の毛を)風でとかした」などの表現から伝わってくるノスタルジックなニュアンスもぴ2_2んとこない人が多いに違いない。

 1970年代とは社会も生活も風景も感性も大きく変わったことを感じざるを得ない。かつては、地方はまぎれもなく「田舎」や「国」であり、人々の心の中には「田舎」の原風景が存在したのである。

 高度資本主義は、都市と田舎の境界を解体し、日本列島の均一化を推進してきた。そして、今や日本全国どこにいってもコンビニエンスストアーにがある時代になったのである。多くの若者が旅先で安堵の感情をもつのは、心の原風景に触れることではなく、コンビニがここにもあったということであるという。

 

 

 

 

 そんなことを考えつつ、「遠い日の夏休み、もう帰らない」という歌詞をしみじみとと噛み締めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのオリンピア・コンサート

2006年08月26日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 35●

Art Blakey' Jazz Messengers  

Olympia concert

Scan10007_8  アート・ブレイキー & ジャズ・メッセンジャーズの『オリンピア・コンサート』(1958年録音)。名盤だ。若い頃は、こういうのは、馬鹿にして聴かなかったのだった。何というか、おじさんが昔を懐かしんで聴くレコードだと思っていた。今、私はれっきとしたおじさんになった。最近、この手のハードバップが無性に好きになり、アート・ブレイキー & ジャズ・メッセンジャーズのCDもいくつか買った。。きっと、年のせいだ。ただ、昔を懐かしんでいるわけではない。なぜか、すっと身体に入ってくるのだ。すっと入ってきて、心が躍る。

 名盤『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』と同じツアーの録音である。どちらもすばらしい、② I Remember clifford によって、私はこちらが好きだ。②はリー・モーガン(tp)のベストプレイではないだろうか。曲の良さはもちろんだが、音の震えがなんともいえなくいい。熱狂の中のライブ録音ながら、繊細で情感溢れる演奏だ。リー・モーガンが当時弱冠20歳だったなんてちょっと信じられないほどだ。⑦ Whisper not もいい。私の知っているこの曲の演奏でベスト5にはいる。

 それにしても、称えるべきは、ベニー・ゴルソンのアレンジである。彼なくしてはこの時期のジャズ・メッセンジャーズは語れない。ゴルソン・ハーモニーはもはやひとつのカテゴリーといってもいい程だ。ただ、プレイヤーとしてのゴルソンについては、存在感の薄さを指摘せざるを得ない。CD付属の小西啓一によるライナーノーツは、

「ただこのライブで、一つ不満があるとしたら、プレーヤーとしてのゴルソンの存在である。いやが上にも盛り上がっている会場だけに、彼も目一杯の奮戦振りを聴かせるが、あのだらだらと長いソロ(?)は、どうも雰囲気を削いでしまう感じがしてならない。作・編曲、音楽監督としては、抜群の才を誇る彼だが、テナーマンとしては、やはりB級の人なのだろう。……」

と手厳しい。


ローランド・カークのドミノ

2006年08月26日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 34●

Roland Kirk     Domino

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 20年ほど前『名演Modern Jazz』(講談社) という本で故・景山民夫の紹介文によって、ローランド・カークというマルチ・リード奏者を知り、このアルバムを購入して以来、ずっとローランド・カークの音楽が大好きだ。

 盲目の人である。なんでも幼い頃看護婦の手違いで目が見えなくなったらしい。晩年には、脳溢血のため半身不随になり、それでも演奏を続けていたとのことである。きっと、カークにとって音楽こそが世界とかかわる唯一の手段だったのだろう。

 テナーとアルトとバリトンを同時にくわえて吹いたり、フルートやマンゼロにもちかえたり、果てはホイッスルを鳴らしたりと一見キワモノ的な演奏をする男である。が、あのジャズ喫茶「いーぐる」の後藤雅洋さんも

重要なのは、ローランド・カークの演奏技術が彼の音楽表現と不可分に結びついているということであり、決してテクニックのためのテクニックではないという点なのだ。その証拠にカークは、この奏法をのべつまくなしに披露するわけではなく、よく聴いていればわかるが、音楽的に必要と思われるところでしか使用することはない。」とか「ここで重要なのは、それが二人の演奏者がそれぞれテナーとマンゼロを吹いたのでは絶対に表すことができない表現力を獲得している点なのだ。」(『Jazz Of Paradise』Jicc出版局)

 と述べているように、レコードやCDを聴いていてもキワモノ的・見世物的な印象は一切ない。実際、私がカークの音楽を初めて聴いた時の印象も、楽器が不思議に気持ちの良いハモリ方をするなというものであった。

 比較的ポップな曲からなるアルバムDomino は、大好きな一枚だが、しばらくぶりに再生装置のトレイにのせた。アルバム全体を貫く疾走感がたまらない。アドリブはよどみなく流れ、楽器の響きは哀愁を感じさせる。バラード演奏でもないのに、聴いていて涙がでそうになる。聴き終わったあと、何か軽い喪失感のようなものが漂う不思議なアルバムである。