WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ニーナとピアノ

2007年04月22日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 155●

Nina Simone And Piano !

Watercolors0007_2  こういう音楽を聴くとあまりに自分自身にフィットしすぎてどうしていいかわからなくなる。自分の「演歌的」な部分が刺激され、細胞のひとつひとつが音に共鳴し始めるような感覚に襲われて怖いほどだ。

 1968年録音のニーナ・シモンのピアノ弾き語り盤『ニーナとピアノ』……。もちろん、黒人的なソウルを感じるのだが、私はもっと、人類史的なネイティブな何かを感じてしまうのだ。美しいとか感動的とか以前に、身体が細胞が反応してしまう。そして、ああ私は生きているなどとわけのわからぬことを考えてしまう。

 しかしそれにしても、そのソウルフルなボーカルに比して、このピアノのまっすぐで端正な響きは何だろう。クラシックのおぼえのあるニーナにしてもれば当然のことなのだろうが、一見正反対に思えるボーカルとピアノがきちんと溶け合い、互いに支えあっているのがすごい。八木正生は「セロニアス・モンクのピアノも凄いが、ニーナのピアノも凄い」といったそうであるが、それも納得できるような響きである。


抗議声明

2007年04月22日 | つまらない雑談

  我々Watercolorsは、安倍極右政権の諸政策と長崎市長射殺事件にみられるようなテロリズムの風潮に、強く抗議するものである。

 テロリズムの背後で安倍極右政権が意図を引いているという意味ではない。まあ、祖父の代から国際勝共連合=統一教会と関係の深い安倍であれば、その可能性が全くないわけではないが……。重要なのは、安倍極右政権が主導する社会の極右化とテロリズムの風潮が構造的に補完しあっているということである。

 考えてみれば、昭和前期もそうであった。さまざまな超国家主義団体や陸海軍将校によるテロは、正式に政府や軍部から命じられたものではなかったかもしれないが(もちろん非公式的なあるいは私的な意味で深い関係はあったわけだが)、それらは構造的に補完しあって、いわゆるファシズムを形成していったわけだ。

 アメリカとともにテロとの戦争を宣言し、反テロリズムのポーズをとる小泉・安倍政権の超国家主義的「改革」が構造的にそれと深い因果関係にあることは皮肉というべきだろうか。あるいは社会学的な必然というべきだろうか。

 その意味で、加藤紘一邸放火事件や今回の長崎市長射殺事件の際、小泉・安倍両氏が消極的な歯切れの悪いコメントしかできなかったことは、ややうがった見方をすれば、そのような文脈で理解できるのである。

 しかしそれにしても、真相は不明であるが、長崎市長射殺事件を犯人の個人的恨みによるものと、当初から十分な根拠も示さず盛んに宣伝したわがマスコミに疑念をいだいたのは私だけだろうか。