この時期だいたい高校大学とも受験の合否が決まったみたいだね
僕も40年以上も前、2度目の受験に失敗した時・・・
(これはこまった、こまった)こまったちゃん状態だった
その頃の大学受験は現役合格の方が少なくて1年2年の浪人は普通だったんだけど
さすがに2度目も失敗となると3度目をあきらめざるを得なかった・・
けれどもまだ働きたくなかった、ぬるい状態でいたかった
大学で緩いサークルに入ってかわいい女の子をゲットする目論見がはずれた現実
この後の人生に何の夢も目標も持って無かったのでとりあえずのバイトを探した
その頃、まだページ数の薄いアルバイトニュースが大阪でも創刊された
確か100円だった
どうせなら一番時給が高いバイトを探した
時給が高いのに・・(簡単な軽作業)と書いてあった
(ほうほう一番時給が高いのに簡単な仕事やて)
人生初めての仕事先が西成の釜ヶ崎だった
釜ヶ崎がどんな所か知らんかった
仕事が土方の‘手元,だった
土方仕事も知らんかった
天六の商店街に近い南森町の事務所に面接に行ったら
横山やすしさんに似た監督が出て来て
「兄ちゃん、この仕事やっとことがあるんかいな?」って言うので
「ありません」って言ったら
「しゃー無いのぅ~まあ人もおらんし、あほうでも務まる仕事やから明日から来いや」
と言われて行った先が釜ヶ崎だった
今でこそ釜ヶ崎も綺麗になってyoutube何かのグルメスポットで取り上げられて
いろんな店で飲み食いしてるけど
1980年頃の釜ヶ崎って言ったら町中が小便臭くて
それに町中で写真なんか撮っていたらただじゃ済まなかった
土方現場は意味不明な単語が飛び交っていた
「あかん、あっか~ん、わしの手元は役に立たんわ~」
・・て先輩土方に言われて
大学に入っていたら落第していただろうけど土方仕事も2~3日で落第した
「あほ!ボケ!ひろ造はもう手元はやらんでええわ!今日からお前は見張りじゃ!」
と言う訳で現場労働から離れて現場の見張りになった・・
(今で言う警備員かな?でも釜ヶ崎の現場の見張りは車の誘導じゃ無くて・・)
(盗人と与太者を見張るけっこうシビアな役だった)
昼飯時に職人が誰もいなくなった現場を見張っていたら怪しいおっさんが近づいて来た
「兄ちゃん、ええ天気やなあ、日当なんぼ貰うとんねん?」
「えっ!4800円そりゃ安いわ、うちの飯場はこんだけ出すでぇ~」
5本の指を広げて見せられたど小指と薬指の先が無かったのでなんぼか分からなかった
そうこうするうちに先輩土方が昼飯から帰って来たので怪しいおっさんは引き上げた
先輩土方に聞くと怪しいおっさんは‘タコ部屋,のスカウトマンだそうだ
タコ部屋に入れられると博奕と借金で一生出られないそうだ
僕がそうだった・・
タコ部屋じゃ無かったけど土方を辞められなかった
その頃の僕は金が出来るとあればあるだけパチンコにつぎ込んでいつもスカンピンだったから
土方から逃げられなかった
それに土方仲間は結束が強かった
ひ弱な見張りの僕に地元の与太者が近づいたりしたら暗に与太者を威嚇した
その頃の土方は与太者より強かった
役立たずな僕でも横山やっさん似の監督はクビにしなかった
皆で一膳めしやに入ってガラス棚からおかずを取って
口に割り箸を咥えて左手を前ズボンに突っ込んだ時にゃ・・
(わしも一端の土方やな・・)
と悦に入ったりした
その頃、住んでいたのは学生専用のアパートだった
住人のほとんどは予備校生か大学生
その年、大学に受かった連中は恋に勉強におしゃれに人生を謳歌し
大学にすべった僕は土色の作業着と汚い安全靴を履いて一日中
(アホ!ボケ!)と海千山千のおっさん連中に怒鳴られいじめられていた
釜ヶ崎の三角公園はマグロ市場の光景のようにアオカン?のおっさん連中が寝転がっていた
皆、コンコンと咳をして元気な連中は焼酎を煽って
一日中ホラ話をして
たまに立ち上がって小便をして
僕はずっとその光景を眺めていて・・
(ええなあ~ラクそうやな、わしも土方やめて仲間に入ろうかな・・)
(ほやけんどここは臭いわ、それに冬はどないすんねん)
とか思いながら19歳の青春をあぶれもんのパラダイス釜ヶ崎で送っていた