戦争犯罪、いわゆる戦犯に興味を持ったので図書館で何冊かリクエストしてもらった
まあほとんど特にB級C級戦犯の方々はほとんど彼ら自身が戦争被害者でなんだね
あの時代上官の命令は絶対的で抗う事なんて不可能だ
戦犯になった方って一番多いのが捕虜虐待なんだ民間人や住人虐待も多いけれど
捕虜のほとんどは欧米人だったから仕返し的な意味合いもあるんだね
それにしても捕虜虐待はひどいね食事は与えず重労働にリンチ、精神的な辱め
あの頃の日本軍には「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う東条さんの広めた「戦陣訓」の教えがあったから
捕虜と言うのは虫けら以下なんだ、だから捕虜への扱いも必然虫けら以下になってしまった
日本で捕虜や抑留と言ったらシベリア抑留で抑留された方々の飢餓に重労働寒さと言った
悲惨な体験を記した本は多く出回ってソビエト憎しスターリン憎しが大勢を占めるが
日本が加害者側の太平洋戦争での捕虜虐待はあまり知られていない
いつの時代も加害体験は忘れがちで被害者意識だけは根強いね
それにしても東条さんて自分は生き恥を晒したんだね
さっき来たお客様に頂いた窓口料金?です。
150円なんですけど・・・記念硬貨の100円玉
今時、記念硬貨ってどこで使えば良いんだろう
1942年オランダ領インドネシア
多くの使用人に囲まれて裕福に暮らしていたノルウェー人家族が日本軍進駐の為
収容所に入れられ悲惨な生活を強いられる
もうこれでもかっ!ってぐらい悲惨な内容だ
日本軍によるレイプ、暴力、圧力が延々と綴られている
もう三分の一程読んだあたりで先を読めなくなってしまった
日本も満州引き揚げとかでロシア兵に受けた暴力や行為が多くの書物に書かれているが
日本兵もロシア兵以上の行いを南方の占領地で行ったんだ
本書の中で8歳のノルゥエーの女の子は日本兵をジャップと書いている
ジャップに家を追い出され小屋に住まわされて父は強制労働に出され
食べ物も無く毎朝点呼と言う挨拶をとらされる
炎天下で子供にも飲み水を与えられずにトイレにも行かされない
仕方なく婦女子は広場でそのまま放尿させられる
日本兵はただその光景をニヤニヤ笑って眺めている
本書に出てくる日本兵は表情も無く知能も低くただの野蛮人なんだ
これは満州引き揚げの著書に出てくるロシア兵その者だな
インドネシアの収容所に入れられた欧米人の収容は3年以上に及ぶから
それと日本兵による抑留者への管理行動を考えるとある意味、満州抑留者以上に悲惨だな
昔、スピルバーグ監督の‘太陽の帝国,って映画を見たけれど
あれも中国での日本軍による欧米人の収容所の話でやはり子供が主人公だった
過度な自虐教育や日本を貶めてやろうと言う連中がいて日本人が皆、卑屈になっていて
本当やら嘘やら分からない事を押し付けられるのは嫌だけれど
やってしまった事実は知るべきだろう
早いもので5日で高校生になりました
高校は隣の県の高校に進学しました。
高知の中学校から徳島県の高校に・・
学校に馴染んでくると江戸時代から文明開化したような感じがしました。
入学式に・・
「起立!国歌斉唱!」と言う掛け声と共に生徒がいっせいにに反応するんです
高知の学校では国歌は歌わないし起立もしない
いやー初めて国歌を歌った時は感激で涙がウルウルしました
授業中に生徒が先生の授業を聞いているのも驚きました
(これが普通か)
初めて教師に好感が持てる様になりました
好きだった歴史の先生が早稲田大学を出ていると聞いて
(わしも勉強して東京の早稲田に入っちゃる!)と思いました。
大志は続きませんでしたけれど
数学の先生に褒められました
その時、ふと思ったんですが・・
学校で先生に褒められた記憶は無くて高校生になって初めて教師に褒められたんです。
(これ本当です)
トップギャランの歌に
「青春時代の真ん中は♪胸に遂げ刺す事ばかり~♪」と言う歌詞がありますけれど
高校時代はホント楽しかったですね
中学時代が暗黒でしたから
現在でもうちの田舎の町並みの風景はそんなに変わらないんですよ
昔は道で行合う人皆、どこの誰それと分かるほど小さな町でした
知らない人が町中を歩いていると注目を浴びるくらい
この時代この辺りには良くお遍路さんが托鉢?に来ました
お遍路さんが家の軒下でごにょごにょとお経を唱えだすと母が
「ほら持って行っちゃり」と言うので
お遍路さんにお米を一握りかお金を5円程持って行くんです。
当時でも少ないんだけれど彼らはあくまで修行の身だから
今でこそお遍路さんはセレブ遍路ばかりだけれど当時は世を儚んで乞食遍路となって
命の絶えるまで四国を巡礼して回る人もいた
峠道などで行倒れたお遍路さんはそのままお地蔵さんになりました
母によく「勉強せんとお遍路さんになるでぇ」と言われた
3日やって辞められないのは遍路と乞食、それほど恵んでくれる人が多かったんです。
小学校ではだらしが無い子だったので担任に良く目の敵にされました
勉強も出来なかったけれどどう言う訳か唯一朗読は得意だった
空想好きで授業中に良くボケーとしていて担任の先生につけられたあだ名がずばり
「このボケー」だった
強い子に媚びへつらい陰で悪口を言うそんな狡すっからくって情けない子だったね
家で一日ひきこもってテレビを見るテレビ小僧で夕暮れには浜に出て漁火を見るのが好きだった
大阪万博の頃か・・この頃から写真がカラーになった
千里ニュータウンの叔父の住む団地に泊めて貰って家族で出かけた
インド館の女性スタッフの顔を見入っていたら抱きしめられた
今でも綺麗な外人女性に見入ってしまう事がある(誰も抱きしめてくれないけど)
万博の外国パビリオンより団地の水洗トイレとユニットバスに憧れた
(今考えると実家の風呂場が離れにあった五右衛門ぶろがどんなに良かったか)
小学校の3~4年か
学校は古い木造で講堂や音楽室までは屋根のある渡り廊下で繋がっていた
通学にランドセルや運動靴を履いて来る児童はいなかった
皆、ビニールの手提げかばんに草履履きだった
現在、僕の住むこの辺りは東南アジアの若者が大勢住んでいて
中には日本人と顔立ちが変わらない方もいて区別がつかないんだけれど
足元に目を落とすと向こうの方は冬でも草履履きなんだ
あの頃(僕の小学生時代)僕の出た小学校は東南アジアだったんだ