元阪神監督の吉田義男さん死去、91歳 85年に球団初の日本一導く 現役時は「今牛若丸」の異名(日刊スポーツ)
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プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分、兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。
現役時代は名遊撃手として、華麗な守備から「今牛若丸」の異名を取った。監督を務めた85年には21年ぶりのセ・リーグを制する。そして日本シリーズでも西武を倒し、日本一に。球界の枠を超え、戦後昭和史に残る一大フィーバーを巻き起こした。
吉田さんは京都府出身。山城高から立命大を経て、53年に阪神へ入団した。
高い意識を持って、遊撃の守備力向上に努めた。寝るときと食事のとき以外はグラブをはめて過ごしていたといわれる。捕るが早いか、投げるが早いか。捕球から送球までの素早さは、他の追随を許さぬものだった。55年に来日したヤンキースの選手たちの投票による「アウトスタンディング・プレーヤー」(最も傑出した選手)に選ばれ、同球団からトロフィーが贈られた。
小技の利く打撃も、他球団の脅威だった。1年目の53年から、13年続けて規定打席に到達。54、56年には盗塁王にも輝いた。
62年には阪神のセ・リーグ初優勝にも貢献。東映との日本シリーズ第1戦では、怪童とうたわれた尾崎行雄からサヨナラ二塁打も放った。また64年には自己最高の打率3割1分8厘を記録し、2度目の優勝も味わった。
69年に現役引退。通算2007試合、1864安打はいずれも球団3位。同2位の350盗塁は、赤星憲広(381盗塁)に抜かれるまで長らく阪神史上最多だった。
阪神の監督を3度務めた、唯一の存在でもある。第1期の75~77年には優勝には届かず。
85年に復帰すると、チームの改革に打って出る。真弓明信を内野から右翼へ回し、岡田彰布を入団当時の二塁手に戻した。遊撃には名手の平田勝男、捕手には木戸克彦を抜てきし、センターラインを固めた。一塁には日本に慣れたバース、不動の三塁には掛布雅之と、役者がそろった。
4月17日巨人戦(甲子園)では、バース、掛布、岡田が伝説のバックスクリーン3連発を成し遂げる。これで勢いに乗った阪神は、21年ぶりのセ・リーグ優勝を飾った。余勢を駆って臨んだ日本シリーズでも西武を一蹴し、球団初の日本一に輝いた。
グリコ森永事件、豊田商事問題、そして日航機墜落事故…。騒然とした世の中を問答無用の明るさで突っ走った快進撃が高く評価され、阪神初の正力松太郎賞を受賞した。
86年には掛布ら主力の故障がたたり、3位に。そして87年には最下位に沈み、退任。現役時代の背番号23が永久欠番となった。
その後は野球フランス代表の監督として、異国で野球の普及に尽力する。フランス語の男性への敬称「ムッシュ」と呼ばれるきっかけにもなった。92年には野球殿堂入りも果たした。
97年には、阪神監督に3度目の就任。同年5位、翌年98年は最下位に終わり、ユニホームを脱いだ。
2000年から日刊スポーツ客員評論家となる。ABCテレビ、ラジオの解説でも、温かみのある京都弁で人気を博した。古巣の阪神を中心に、球界へ愛情あふれる提言を続けてきた。
◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城を経て、立命大を中退し53年阪神入団。54年、56年盗塁王。ベストナイン9度は遊撃手最多。通算2007試合、1864安打、打率2割6分7厘、66本塁打、434打点。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。85年セ・リーグ制覇、日本一で正力松太郎賞。監督通算484勝511敗56分け、勝率4割8分6厘。92年殿堂入り。背番号「23」は永久欠番。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち
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1985年、阪神タイガース日本一の立役者、吉田義男さんが死去した。阪神は2023年にもオリックスとの関西シリーズを制して、この年以来の日本一になったが、日本一のインパクトはやはり1985年のほうが大きかったと私は思っている。1964年以来、21年ぶりの日本一は吉田さんの手腕なくしてはあり得なかった。
シーズン開幕当初こそ「普通の幕開け」だったが、記事にもある4月17日の「バックスクリーン3連発」は巨人のエース、槙原寛己投手から打ったものだった。ただ、それも春の珍事といったムードで熱狂にはほど遠かった。だが、後になって思い返すと、このバックスクリーン3連発こそが日本一に向けた快進撃の始まりであり、「打撃のタイガース」だったこの年の象徴だった。「取られても、それ以上に取り返す」野球だったという印象が強いが、それはこの年の阪神のチーム本塁打数219本が、当時としてはセ・リーグ記録だったことにも示されている(この当時はまだ甲子園にラッキーゾーンがあったため、両翼は今より狭く、単純比較はできない)。
1985年は、日航機墜落事故が起きた年でもある。墜落したJAL123便には、当時の球団社長・中埜肇(なかの・はじめ)さんも搭乗しており、帰らぬ人となった。中埜社長の死亡確認後、タイガースは球場に半旗を掲げて数試合を戦った。この悲劇によりタイガースが失速するのではないかと心配したが、タイガースナインは「弔い合戦」さながらにその後も快進撃を続けた。関西でも、シーズン開幕当初はタイガース優勝を誰も信じていなかったが、「もしかすると……」というムードが出てきたのは、この頃だったように記憶する。
タイガースが1964年以来、21年ぶりのセ・リーグ優勝を決めたのは、神宮でのスワローズ戦だった。スワローズは下位常連で観客動員が落ちていた時期で、神宮なのに半分近くタイガースファンで埋まっていた。当時は、巨人戦以外がテレビ中継されること自体、珍しかったが、この年10月から放送を始めたばかりの「ニュースステーション」(「報道ステーション」の前身の番組)が、ニュースを飛ばして神宮からの中継に切り替えたため、タイガースの21年ぶりセ・リーグ制覇の瞬間は多くの人が見たことになる。私自身は中3で高校受験を控えていたため、そもそもテレビ自体、夕食時くらいしか見ていなかったが、さすがにこの日ばかりはテレビ画面に釘付けになったことを覚えている。
その後は、無敵と言われ、広岡達朗監督が率いた西武ライオンズとの日本シリーズも制し日本一になった。現役時代の吉田さんのことは存じ上げないが、守備面で優れた技能を発揮した。みずからは守備の人だったにもかかわらず、選手時代の自分とは違う打撃優位の85年のタイガースを鼓舞し、支えた。
打って打って打ちまくった助っ人外国人、ランディ・バースはこの年、三冠王を獲った。1985年は、パ・リーグでも落合博満(ロッテ)が三冠王を獲得している。獲ること自体が難しい三冠王がセ・パ両リーグで生まれたこの年は、その意味でもプロ野球記録に残る年だった。バース、落合が別々のリーグにいたからこそ両雄が並び立ったわけで、阪神の優勝のみならず、このような意味でもまさに奇跡のシーズンだった。
テレビは2023年と同じように、道頓堀に飛び込む熱狂的ファンの姿を映し出していた。熱狂した群衆によってケンタッキーフライドチキンの店頭から持ち去られたカーネル・サンダース人形が道頓堀に投げ込まれるという事件まで起きたことをつい最近のことのように思い出す。
タイガースファンにとって、次のセ・リーグ優勝は2003年まで18年も待たなければならなかった。日本一に至っては、2023年まで38年も待つことになった。吉田さんは、自分の存命中に実現した2度目の日本一をどんな思いで眺めたのだろうか。それ以前に、自分の存命中に再び日本一が実現すると思っていただろうか。自分の監督在任中にバックスクリーン3連発の当事者だった岡田彰布さんが監督として実現した2度目の日本一を、感慨をもって眺めたのではないかと思う。
プロ野球12球団の中でも、最も伝統ある2球団・巨人と阪神は「純血主義」のチームでもある。自分のチームで選手としてプレーした経験のある人しか監督に就けないのだ。中日ドラゴンズ一筋で、他球団での選手歴のない星野仙一氏を監督に就けたのが阪神では唯一の例外である。巨人に至っては、自チームで選手歴のない人が監督に就いた例はない。その上、優勝できなくても辛抱強く監督を信じることができる巨人のフロントと異なり、阪神のフロントは、吉田さんほどの功労者でも、翌86年から87年に優勝できなかったというだけで解任している。
スポーツは結果がすべてとはいえ、純血主義で、常に結果を求められ、結果が伴わなければすぐ解任されるタイガース監督は人事的には「難場」として知られ、近年、なり手不足が指摘される背景にこのような事情もある。そのような難場を3度も務めた人物も吉田さんだけで、タイガース最大の功労者だった。
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今と違って、スマホどころかパソコンもない時代だった。ようやくファミコンが世に出て「スーパーマリオブラザーズ」が大ヒットした年でもあった。だが、そのファミコンも持っていなかった私にとって、受験勉強のわずかな息抜きは身近な人との対面でのおしゃべりくらいだった。
特に、仲の良かった当時小6の妹とはよくおしゃべりした。妹は私の部屋に来ると、いつも私の(椅子ではなく)机の上に座って、屈託なく談笑した。私の机に座っている妹はなぜか絵になっていて、お行儀悪いとは思わなかった。
前半戦をタイガースが首位で折り返した頃、私の机に腰掛け談笑していた妹が「あんたはタイガース優勝できると思う?」と聞いてきた(父やクラスメートの男子児童の影響で、妹には野球の知識があった)。「まだわかんないけど、普段優勝しないところがしたら面白いから、応援しようか」と私が答えると、妹も「賛成!(応援)しようよ!」と言った。
タイガースが、ライオンズとの日本シリーズを制して日本一を達成した直後の11月上旬。妹はまた私の机に座って「タイガース、ホントに優勝しちゃったね。ちょっとびっくりじゃない?」と言った。「タイガースが優勝するって思ってなかったでしょ」と私が妹をからかうと、「あんたもでしょ」と妹が言い返す。思わず2人で笑った。
「自分も驚いたけど、いつも同じ球団ばっかり優勝だとつまんないよ。これでよかったんじゃない?」と私は答えた。「来年もタイガース優勝できるかな?」と妹が聞くので「わかんないよ。プロ野球で連覇ってすごく難しいし」と私は無難に答えた。「そうなんや。(連覇)したらいいのにねー」と言って笑うと、妹は座っていた私の机から降り、自分の部屋に戻っていった。
「吉田義男っていう名前、ガリレオ・ガリレイみたいだよね」と妹に言い、笑われたこともある。1985年8月頃の記憶だ。箸が転げてもおかしい年頃の妹は、大笑いして座っていた私の机から滑り落ちた。しばらく笑った後、妹はまた私の机に座ると「あんたさぁ、それってただ名前が繰り返しみたいになってるのが似てるってだけじゃん? 他は全然違うし」と楽しそうに言い、また大笑いした。
いま思い出しても楽しい時代だった。タイガース日本一の立役者なのに、吉田監督の名前で遊んでしまい、大変申し訳ないことをしたと思っている。吉田監督がいて楽しかった「あの時代」は、おそらく二度と戻ってこないような気がする。