大阪桐蔭、雑草魂4度目逆転勝ち!2年ぶり4度目全国制覇(スポーツ報知)
<夏の高校野球>総括…「打高投低」の傾向が顕著だった大会(毎日)
第96回夏の全国高校野球大会は、終わってみれば優勝候補の「本命」大阪桐蔭が2年ぶり4回目の優勝を成し遂げ閉幕した。今回も、グラウンド内外でいろいろあった大会だったが振り返っておこう。
今大会は悪天候に泣かされた大会だった。台風接近で開会式がいきなり2日間順延となった。開会式が2日続けて順延になったのは甲子園史上初の珍事で、波乱の予感を抱かせた。これ以降は、悪天候の中でグランド整備をしながら必死に日程を消化したが、球児たちには気の毒な大会だった。
悪天候の影響で8月9日(土)の試合がなくなり、16~17日の週末も大雨の中の試合となった。また、休養日もずれ込んで23日(土)に当たるなど、最も観客動員が見込める週末に試合がなかったり悪天候だったりすることが続いた。テレビ観戦している限り観客動員に大きな影響はなかったようだが、球場での物販の売り上げ等には大きな打撃だったのではないかと想像している。
毎日新聞の記事にある通り、打高投低の傾向が強く出た大会だった。甲子園大会は「春の投手力、夏の総合力」と言われ、夏の大会で打撃が勝負を決めるのは例年のことだが、とにかく今年は逆転試合が多かった。大垣日大×藤代戦で、0-8から逆転勝ちした大垣日大のように、大量得点差をも跳ね返す逆転試合が多かった。決勝戦も、先制点を奪われた大阪桐蔭が逆転勝ちするなど今大会を象徴する幕切れだった。調べたわけではないが、全試合の半分近くが逆転試合だったのではないか(あるいは半分以上かもしれない)。
こうした試合展開は、観戦している側にとってはスリリングでいいものだが、プレーしている球児たちには気が気ではなかったのではないか。「あまりに逆転試合が多すぎて、選手たちが先制点を奪うのに躊躇しなければいいが」と余計な心配をしてしまうほどの逆転劇の多さだった。
逆転劇が多かった大会を象徴するように、延長戦、サヨナラ試合も多かった。忘れられない光景だったのが、1回戦、鹿屋中央(鹿児島)×市和歌山戦だ。1-1の同点で迎えた延長12回裏、鹿屋中央の攻撃だった。1死1、3塁で打者が放ったのは二ゴロ。二塁手が捕球後、本塁に送球すべきところを誤って1塁に投球。打者走者は刺したものの、3塁走者が生還して鹿屋中央がサヨナラ勝ち…。
私は一瞬呆気にとられ、「ああ、アウトカウントを間違えたのだ」と事態を理解するのに少し時間を要した。二塁手は緊迫した場面で頭が真っ白になり、アウトカウントを含めすべてが飛んでしまったという。「甲子園には魔物が棲む」ということを改めて思い知らされた、あまりに残酷な瞬間だった。
こうした逆転試合の多さを受けて「投手力の整備が今後の課題」とする報道も一部にあったようだが、優れた投手を擁するチームがことごとく地方大会で敗れ、甲子園に出場できなかったことも打高投低の大会となった背景として挙げられる。
昨年の第95回大会の講評で、当ブログは投手を中心に2年生に逸材が多い大会だったことを指摘、「プロ野球のスカウト陣には悩ましいところだが、来年に向け、楽しみが温存されたと肯定的に捉えよう」としていた。本来なら昨年の大会を沸かせた2年生たちが3年となり、甲子園を盛り上げてくれるはずだったが、そのほとんどが地方予選敗退で甲子園に出場できなかったことが、今大会をより一層打撃優位の大会へと変えたのである。
そのうえ、優勝候補と目された強豪・有名校が1回戦段階で次々と敗れる波乱もあった。開会式直後の初日の第1試合で、春のセンバツ覇者・龍谷大平安(京都)が春日部共栄(埼玉)に敗れたのがその象徴だったように思う。出場全49校の中で最初に甲子園を去るのがよもや春の覇者になるとは、一体誰が予想できただろうか。智弁学園(奈良)、広陵(広島)などの強豪校も1回戦で散った。戦国時代にふさわしい大会だった。
全体としては、東日本勢が今回も優勢だった。西日本勢が久しぶりに気を吐いた
今年の選抜大会の講評で、当ブログは「東日本勢中心に展開してきたここ数年の大会の趨勢が、今年を境にまたかつてのような西日本勢中心に戻るのか、それとも再び東日本勢が勢いを盛り返すのか。夏に向け、これも楽しみな点」としたが、結果としては再び東日本勢優位に戻った感がある。特に、東北勢は角館(秋田)を除く5校が揃って1回戦を突破、山形中央は3回戦に進出した。
特筆すべきは東海・北信越勢5校が揃って1回戦を突破したこと。これは初の快挙だ。目を見張る強打で4強に残った敦賀気比(福井)を中心に、それぞれがきらりと光る個性に満ちた東海・北信越勢。三重の準優勝は、東海・北信越勢が活躍した今大会の象徴だ。日本文理(新潟)は、甲子園でも上位進出がすっかり定着した感がある。かつて言われた「雪国のハンディ」はすっかり過去のものとなった。
逆に、西日本勢はまた低迷した。大阪桐蔭が優勝して面目を保ったが、1回戦開催中、「近畿勢 全滅か」というツイッターのタイムラインが回るほど一時は全校敗退の危機に見舞われた。九州勢も沖縄尚学が8強に残り、鹿屋中央がなんとか初戦を突破したが、それが精いっぱいだった。準々決勝~決勝の顔ぶれを見る限り、表向きは西日本勢が頑張ったように思えるが、これは1回戦段階で西日本勢同士、東日本勢同士の対戦が多かったため、西日本勢も多く生き残れた影響が大きい。
1回戦の対戦成績を注意深く見てみると、東西対決となった試合はほとんど東日本勢が勝っている。春のセンバツのように1回戦で東日本勢同士、西日本勢同士が対戦しないような組み合わせ抽選が行われていれば、西日本勢はもっと苦しい戦いを強いられていた可能性もある。打高投低と並び「東高西低」もここしばらくは続きそうだ。
今大会の大きな話題として、「機動破壊」をスローガンに掲げた健大高崎(群馬)の「大量リード下における盗塁」と、東海大四(南北海道)・西嶋亮太投手の超スローボールの是非が問われた。結論から言えば、当ブログはどちらも戦術、技術の一環として「問題なし」の立場だ。
健大高崎は、2011年の初出場から機動力野球を売り物にしており、今大会でもその機動力はひときわ目立った。みずから「機動破壊」のスローガンを掲げ、2回戦の利府(宮城)戦では11盗塁。合計では26盗塁となり、大会記録にあと3と迫った。準々決勝で大阪桐蔭に敗れたが、ここで4強に進出してもう1試合多く戦っていれば確実に大会記録更新だった。
こうした同校の姿勢に、「大量得点差でリードしているときは盗塁を控える」というメジャーリーグのマナー(?)を持ち出し、フェアプレー精神に反する、との指摘がなされた。しかし、そうしたマナーが存在するということを当ブログは初めて聞いた。20年以上前、自分の野球部時代にもそんな話は聞いたことがない。それに、8点差でも逆転されるような今大会の流れの中で、なぜ同校がみずからの最大の武器である「足」を封印しなければならないのか。勝利が野球のすべてではないとしても、それで逆転負けを喫したら誰か責任を取ってくれるのか。本塁打を打ちまくる野球もいいが、足を生かして走者が貪欲に次の塁をめざす野球のどこが悪いのか。「柔よく剛を制す」ということわざもある。健大高崎のようなチームがいることが、甲子園ファンにとって「スパイス」になっている。
西嶋投手の超スローボールについても、打者のタイミングを外し、打たれにくくする投球術のひとつであり、外野からとやかく言われる筋合いはない。それでストライクになれば大したものだし、外れればカウントを悪くして自滅するだけのことだ。
ところで、優れた投手を擁するチームがことごとく地方大会で敗れ、甲子園に出場できなかったことが打高投低の大会の背景であることは上ですでに触れたが、その象徴だったのが安楽智大投手を要する済美(愛媛)の地方大会での敗戦だ。安楽投手の投げ過ぎはすでに昨夏から問題とされており、「地方大会で負けたことが逆によかったのかもしれない」とする論調も一部にあった。私も安楽投手の今後を考えるならそれでよかったと思っている。
済美に関しては、野球部でいじめが発覚するという大変残念な出来事もあった。この影響で済美は対外試合禁止処分となり、安楽投手も高校日本代表の選考から外れるに至った。当ブログには、野球部でのいじめ問題と安楽投手の「使い潰し」の根は同じところにあるように思える。上甲正典監督はかねてから「高校生に投球制限は不要」が持論であり、安楽投手の連投を容認してきた。1991年の大会で投げ過ぎのため肘を壊し、プロに進んだものの野手転向を余儀なくされた結果、短期間で引退に追い込まれた大野倫投手(沖縄水産~巨人)の悲劇を、当時から宇和島東の監督として間近に見ているにもかかわらず、である。いじめ問題もこうした指導法が根底にあることは想像に難くない。
時代はとっくに変わり、甲子園では投手の連投を避けるため、複数のエースを擁し交代で投げさせるのが主流になっている。地方大会では今年からタイブレーク制(延長戦に入った場合、1死満塁から攻撃を始める制度)が導入された。より一層選手の体調に配慮した大会運営にすることはコンセンサスと言っていい。そうした中、昭和にタイムスリップしたかのような「根性論一辺倒」の前時代的、反科学的な指導法を取り続けた結果、投手の使い潰しも部内でのいじめの発生も防ぐことができなかった上甲監督には率直に言って疑問だし、もはや彼の時代は終わったと考える。当ブログは上甲監督に引退を勧告する。
最後に「場外戦」的話題として、春日部共栄高校の「おにぎりマネ」問題に触れておこう。ことの経緯は報道されている通りだが、春日部共栄高校の3年生女子マネージャーが、選手のためおにぎりを握り続け、そのために選抜クラスから普通クラスに転籍したとして話題を呼んだ件だ。マネージャーの高校野球における歴史は古く、選手と事実上一心同体の存在として、陰から選手たちを支えてきた。かつてはベンチ入りもできなかったが、96年の大会から「公式記録員」枠でマネージャーも1人に限りベンチ入りできるようになったことは、古い高校野球ファンにはよく知られている(監督同様、背番号がないため試合中のグラウンド上には出られず、いわゆる「伝令」もできない)。
こうした女子マネージャーの存在が、今頃になってクローズアップされた背景に、安倍政権の女性「活用」方針があることは想像に難くない。女性「活用」問題については、そのうち別エントリで論じたいと思っているが、この話題が出た当初、「ジェンダー論の観点から餌食になるな」と思ったら案の定、論争になった。「男性=表舞台に立つ人」「女性=陰から支える人」という構造がジェンダー論の観点から認めがたいと捉えられることは容易に予想できたし、古くは1975年、「あなた作るひと、わたし食べるひと」という食品会社のCMが、性別役割分業の観点から批判され放送休止に追い込まれた出来事を思い出した。
このことをどう捉えるかは当ブログにも判断は難しい。性別役割分業否定論を根拠とした反対論、「おにぎりを握ることが本人のキャリアに結びつかず、そのために選抜クラスを捨てることが社会的損失に当たる」とする反対論もあった。容認論の多くは「本人の選択だから」というものが多いが、当ブログにはどれもどうもすっきりしない。性別役割分業という観点でいえば、これが仮に「女子スポーツ部の男子マネージャー」という逆のパターンだったらどうかと考えると比較的すっきりするのではないか。「性別ゆえに表舞台に立つ道が初めから閉ざされている中で、表舞台に立つ選手を陰から支える」という存在を私たちの社会が容認するかしないか、という問題である。
本人の選択ならいいんではないの、と思う半面、「強制でなければなんでも容認なのか」と言われたらそうとも言えない。たとえば、生活のために性風俗産業で働くことを「本人の意思で選んだ」女性に対し、それを容認すべきかどうかと尋ねられたら、当ブログは明確に「否」と答える。生活のために女性がそのような事態を不本意ながら受け入れざるを得ない社会は改善されるべきなのだ。
もっとも、大人社会の性風俗産業と同一視するのはいささか極端かもしれない。「陰から支える」役割はどんな時代のどんな社会にも必要だし、日本社会のように「神輿に乗る人よりも、担ぐ人のほうが真の権力者」であるというケースも珍しくない。みずから望んで表舞台に立たず、誰かを支える「参謀」役となる場合もある。当ブログ管理人もその典型であり、組織のトップに立てる器ではないと思っているから、名参謀役ができるならそれが一番いいと思っている。ただ、その役割が性別で自動的に規定されるなら、それは本人の意思とは別のレベルで改められなければならない。
キャリアの毀損という観点でいえば、このマネージャーは普通クラスではなく特進クラスへの転籍とする一部報道もある。春日部共栄高校の選抜クラスは偏差値が70、特進は67であり、当ブログ管理人から見ても雲の上のような存在だ。実際、受験競争を生き抜いた世代である当ブログ管理人から見れば、偏差値など65を超えれば大勢に影響はなく、70でも67でもその後の人生は大きく変わらないような気がする。「レベルを落として67」の頭脳があれば、その後の人生は彼女次第ではないかとも思える。今後の彼女の人生に幸多くあることを願っている。
むしろ、当ブログが違和感を覚えたのは「上から目線」で、ジェンダー論だのキャリアだのを振りかざして説教を垂れる大人たちのほうだ。東京都議会で、少子化問題への取り組みを質した女性都議(塩村文夏さん)に対し、「お前が産め」という女性蔑視、人権侵害のヤジが飛んだのはついこの間の出来事である。この国の大人たちは、高校生の振る舞いをとやかく言う前に、自分の身の回りで起きている女性差別を根絶するほうが先だ。それすらもできない大人が高校生に対し、偉そうにジェンダーだのキャリアだのを説いても、当の高校生には響かないばかりか白けるだけであろうし、大人がこんなことをしている限り、女性の社会進出指数が世界105位の日本の惨状も変わることはないと思う。
今回もいろいろなことがあった高校野球大会だった。甲子園から高校球児が消えると、厳しかった夏も終わりが見えてくる。実際、ここ数日で朝晩は急激に涼しくなった。球児たちは冬に耐え、また来年の甲子園で美しい花を咲かせてほしい。