明日で東日本大震災から丸9年となる。
それとは関係なく、上映中の「Fukushima50」を観て来たのだった。
「Fukushima50」とは、東京電力福島第一原子力発電所事故で生命の危険に晒されながら復旧に向け奮闘した50名のスタッフを、海外メディアが称賛の意を込めて命名したものである。渡辺謙、佐藤浩市ら重厚なキャストを揃え、地震や津波のシーンはかなりリアルな影像を再現し、見応えはある。
しかし、私は正直コレを観て消化不良な思いにさせられた。
これからご覧になる方も多いかと思うので詳述は避けるが、この映画は東電社員の苦労しか描いておらず、事の本質から目を背けさせようという悪意すら感じてしまうのだ。
東電福島原発事故は、今なお何万人という人達が故郷に戻れずにいる、れっきとした現在進行形の問題だ。
孫崎享(まごさき・うける)氏の著書「戦後史の正体」によると、そもそも日本に原発が造られたのは第五福竜丸事件に端を発する米国のプロパガンダ、すなわち広島・長崎・第五福竜丸とわずか10年で3度も被爆した日本人の目先をくらませる「原子力の平和利用」というインチキに当時の中曽根康弘と読売新聞の正力松太郎が乗っかったのだ。
そしてそれを正当化するために、各電力会社はマスコミに巨額の出稿(ハッキリ言えば買収)をして原発安全神話を創り上げたのだ。
フクシマの後、彼らが「想定外」しか言わなかった歯切れの悪さが、それを象徴している。
映画の中で、キャストが官邸の指示に翻弄されるシーンが再三出てくる。それは事実だが、民主党政権のシロウトぶりばかりがつたわってくる反面、そもそも原発を導入し神話を創ったのは長らく続いた自民党政権である。
米軍が「トモダチ作戦」として避難者を助けてくれた事も事実だが、描かれ方が美談すぎる。
米軍から政府に約68億円の請求がなされた事は、あまり報じられていない。
フクシマでより描かねばならないのは故郷を奪われた人達の苦しみと、ひとたびトラブルになれば人間の手には負えないモンスターである原発が導入、神話化されていった経緯である。
それが一切なしに、3年が過ぎて福島に桜が満開になってあたかもそれで大団円であるかのような展開には、違和感しかないのである…