佐伯祐三(1898~1928)は、明治中期に生まれ、昭和の初めに30歳の若さでこの世を去った画家である。佐伯とほぼ同時期に活躍して、若くして亡くなった画家には、青木繁や関根正二らが居る。彼らを語るときには「天才」とか「夭折」の言葉が使われるけれども、佐伯にはどうも使いにくい。ヴラマンクに「アカデミズム」と酷評されたり、絵画制作が試行錯誤の連続であったこと、若いながらも30歳の大台に乗っていること(20歳代なら夭折もあろうが)も、使いにくさの理由かもしれない。
茨城県の笠間日動美術館において、没後80年佐伯祐三展を開催している。展示は、ほぼ制作年に沿っており、佐伯の生涯や作風の変化を追うのに、大変わかりやすい。初期の肖像画3点は、自信に満ち溢れた佐伯の表情が良く表れている。肖像画の意義は自らを見つめ直すことにあるといわれるが、そうだとすれば、佐伯の表情は自信と希望に満ち溢れている。色彩もまた同様である。
佐伯がヴラマンクに「アカデミズム」と酷評されたとき、彼はすでに26歳になっていた。亡くなる、たった4年前の出来事である。これは驚くべきことだ。この事件以来、佐伯は絵画制作を止まることなく、走り続けたことになる。酷評後の佐伯は作風ががらりと変わり、セザンヌに影響を受けたとされる初期作品からは逸脱して、ユトリロに近い画風となる。
徹底してフランスの街並みを描いていく佐伯。誰も居ないカフェー、ポスターだらけの壁面、寺院など…。何気ない景色だが、それらはフランスを象徴するような場所で、佐伯が余程フランスを愛していたことがうかがい知れるような気がする。
私が気になったのは、1925年頃に描かれた《人形》と1928年に描かれた《ロシアの少女》の対比である。《人形》のモチーフと成ったのは、佐伯が古物商で見つけた男女対となったなめし革製の人形。人形の帽子の赤い飾りが特に目につくが、まるで人間のように生き生きとしている。血が通っていてもおかしくないようにみえる。ところが、である。一方の《ロシアの少女》はタイトルの通り、モデルがしっかりといたのだが、まるで人形のように生気がない。背景は佐伯にしては珍しいイエローを使用しているが、明るい色を使いながら、画面の雰囲気は重苦しい。《人形》が人間であり、《ロシアの少女》は人形である。人間の生命が尽きるときは、このようなものなのだろうか。悲しくなる。
展覧会の最後には、戸外で佐伯と娘の禰智子(やちこ)が写った写真が展示されている。佐伯はキャンバスに向かって、真剣なまなざしで筆を振るっている。一方の禰智子はもう帰りたそうな表情をしている。ほほえましい写真である。しかし、この数年後、二人には悲しい現実が待っていた。1928年8月に佐伯祐三は死去、その同月に禰智子も世を去るのである。この事実を知ったうえで、再び写真を見ると、二人のほほえましさが、悲しみに変わる。人間の感情しだいで、物事はこうも見方が変わるらしい。だから、どうしたという話ではあるが。
茨城県の笠間日動美術館において、没後80年佐伯祐三展を開催している。展示は、ほぼ制作年に沿っており、佐伯の生涯や作風の変化を追うのに、大変わかりやすい。初期の肖像画3点は、自信に満ち溢れた佐伯の表情が良く表れている。肖像画の意義は自らを見つめ直すことにあるといわれるが、そうだとすれば、佐伯の表情は自信と希望に満ち溢れている。色彩もまた同様である。
佐伯がヴラマンクに「アカデミズム」と酷評されたとき、彼はすでに26歳になっていた。亡くなる、たった4年前の出来事である。これは驚くべきことだ。この事件以来、佐伯は絵画制作を止まることなく、走り続けたことになる。酷評後の佐伯は作風ががらりと変わり、セザンヌに影響を受けたとされる初期作品からは逸脱して、ユトリロに近い画風となる。
徹底してフランスの街並みを描いていく佐伯。誰も居ないカフェー、ポスターだらけの壁面、寺院など…。何気ない景色だが、それらはフランスを象徴するような場所で、佐伯が余程フランスを愛していたことがうかがい知れるような気がする。
私が気になったのは、1925年頃に描かれた《人形》と1928年に描かれた《ロシアの少女》の対比である。《人形》のモチーフと成ったのは、佐伯が古物商で見つけた男女対となったなめし革製の人形。人形の帽子の赤い飾りが特に目につくが、まるで人間のように生き生きとしている。血が通っていてもおかしくないようにみえる。ところが、である。一方の《ロシアの少女》はタイトルの通り、モデルがしっかりといたのだが、まるで人形のように生気がない。背景は佐伯にしては珍しいイエローを使用しているが、明るい色を使いながら、画面の雰囲気は重苦しい。《人形》が人間であり、《ロシアの少女》は人形である。人間の生命が尽きるときは、このようなものなのだろうか。悲しくなる。
展覧会の最後には、戸外で佐伯と娘の禰智子(やちこ)が写った写真が展示されている。佐伯はキャンバスに向かって、真剣なまなざしで筆を振るっている。一方の禰智子はもう帰りたそうな表情をしている。ほほえましい写真である。しかし、この数年後、二人には悲しい現実が待っていた。1928年8月に佐伯祐三は死去、その同月に禰智子も世を去るのである。この事実を知ったうえで、再び写真を見ると、二人のほほえましさが、悲しみに変わる。人間の感情しだいで、物事はこうも見方が変わるらしい。だから、どうしたという話ではあるが。