「はじめに」によれば、本書は「組織としてのモサドを描き出そうとした」。
モサドは、官僚組織の一部である。したがって、第一に、政治家との綱引きがある。第二に、同じ官僚組織の他の組織、ことに他の情報組織との抗争がある。第三に、組織内部の権力闘争がある。第四に、組織のたるみからくる失敗がある。第五に、国家を維持し、発展させるため他の組織との一致協力がある。要するに、古今東西の官僚組織に通じる動きを「組織としてのモサド」に見てとることができる。
第一点の政治家との関係をいえば、モサドは歴代のマパイ(労働党)政権との親和性が高かった。ために、右派のリクルード党が初めて政権をとると、モサドとの関係はギクシャクしたものになった。メナヘム・ベギン首相(1977-83)は、1950年代には第2代モサド長官イセル・ハルエルから監視の対象とされていたのである。
おなじくリクルード党のアリエル・シャロンは、後に首相(2001-06)になるのだが、ベギン政権下の1981年に国防相に就任した。当時イラクは原子炉を建設していた。原爆の開発をおそれるベギン首相は、空爆を決定した。アマン長官イェホシュア・サグイも「情報がない」と反対し、ことに第5代モサド長官イツハク・ホフィとシャロンは激しく対立する。
結果として「オペラ」作戦は成功し、A・J・クィネル『スナップ・ショット』のような小説やダン・マッキンノン『あの原子炉を叩け!』のようなルポタージュを生むのだが、選挙で大勝利をおさめたベギンはうかれてモサドの情報収集が作戦の成功に寄与したことを漏らしてしまった。ホフィ長官は、それまでの禁を破り、「暗闇」から顔をだして新聞社のインタビューに応じ、政治家がインテリジェンスについて軽々しくしゃべるものではない、と釘をさした。この行為は、ホフィ長官とベギンらとの確執に発展していく。
第二点・・・・イスラエルのインテリジェンス機関のなかで今日最大の人員を擁するアマンは、モサド創成期に類似の活動をおこなっていた。当然、両組織の間でせめぎあいが生じたのだ。しかし、アマン長官アミットが第3代モサド長官に就任後、アマンとモサドとの間には一線が画されることとなった。モサドがヒュミントに特化した情報収集であるのに対し、アマンは通信傍受などの技術的な情報収集活動に特化された。さらに、アマンは国家レベルの情報分析から政府への提言を受けもつ総合的な情報機関である、とされた。
ナティーフは、(旧)ソ連・東欧圏でイスラエルに移住を希望するユダヤ人を支援する組織で、その活動はしばしばモサドと競合する。
また、1957年に設置された国防省のラカム(科学連絡事務局)は、科学・技術の情報に特化した秘密組織である。指揮系統が明らかでなく、活動地域も活動内容もモサドと重なる。これだけでも火種の要素は十分にあったのだが、政治が介入することで、モサドにとっては厄介な存在となった。四半世紀の長きにわたって局長をつとめたベンヤミン・ブルンベルグは労働党とのパイプが太かった。ベギン政権下、シャロン国防相が裏でうごいて更迭された。後任のラフィ・エイタンは、アイヒマン捕獲ほかイスラエル諜報史にのこる活躍をした管理官だが、モサドで野心を満たすことができなかった。モサド退官後、シャロンに起用され、リクルード党寄りの度を深めるとともに、モサドとの対抗意識を露わにした。
ちなみに、シャバクの活動する地域は主として国内である。米国の連邦捜査局(FBI)、英国の情報局秘密情報部(SIS、旧称MI6)に相当する。モサドは米国の中央情報局(CIA)、英国の情報局保安部(SS、MI5)に相当する。
三、四は省いて、第五点に簡単にふれておこう。
イスラエルにおいてインテリジェンスが重視されるのは、国家建設以来周囲の国々、しかも圧倒的に人口の多い国々と常に緊張関係にあったからだ。インテリジェンスにおいて優位に立つことで、国家の安全を保ち、安全をゆるがす要因を排除していく。この方針は、イスラエルのどの情報機関にも共通していたから、基本的なところで一致協力することができた。各情報機関の結束の成果は、第三次中東戦争に端的にみられる。
今日、イスラエルの「情報コミュニティ」は、次のような組織構成となっている。
首相府のなかに情報担当長官会議(ヴァラシュ委員会)があり、モサド長官がその長をつとめる。委員会の長たるモサド長官は、首相に対して報告する義務があり、首相の指令に従ってうごく。
委員会を構成する情報担当長官は、次の組織の長である。すなわち、モサド、シャバク(旧称シン・ベト)、アマン、ナティーフ、警察公安部、外務省政治分析センター(CPR)である。
そして、モサドの組織は、(1)管理担当副長官の下に総務、防諜、分析、訓練、技術支援、工作調整をそれぞれ担当する課が置かれている。また、(2)工作担当副長官の下に、対外情報収集、偵察・尾行・盗聴、他国情報機関との情報交換、国外ユダヤ人の保護と移住援助、実行部隊、プロパガンダ、技術工作をそれぞれ担当する部門が置かれている。
かくのごとくイスラエルのインテリジェンス組織は洗練されたものとなっているのだが、問題は戦略である。
イスラエルは建国以来、遠交近攻、つまりシリアやヨルダンなど周辺アラブ諸国に対抗するため、トルコやイランなどとの関係を樹立するという戦略を採用した。
しかし、建国から半世紀をへた今、中東の地政学はおおきく変化した。イスラエルとその周辺のエジプトとヨルダンの関係は安定し、イラクのフセイン政権は崩壊した。逆に、外周のイランは核兵器開発に手をのばし、イスラエルの潜在敵国に変貌した。スーダンやエチオピアは、ソ連勢力圏への移行をへて、ソ連解体後は「混乱状態」にある。
こうした地政学的変化にもとづいて中長期的戦略を改めねばならないのだが、イスラエルは「冷戦終結後は外周戦略に代わる長期的な戦略が見い出せていないようにも見える」。
そして、「中長期的戦略のない所でインテリジェンスは有効に機能しない」と本書は評する。この評語を疑う者は、わが日本の北方領土をめぐる政官の迷走を顧みるとよい。
□小谷賢『モサド -暗躍と抗争の六十年史-』(新潮社、2009)
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モサドは、官僚組織の一部である。したがって、第一に、政治家との綱引きがある。第二に、同じ官僚組織の他の組織、ことに他の情報組織との抗争がある。第三に、組織内部の権力闘争がある。第四に、組織のたるみからくる失敗がある。第五に、国家を維持し、発展させるため他の組織との一致協力がある。要するに、古今東西の官僚組織に通じる動きを「組織としてのモサド」に見てとることができる。
第一点の政治家との関係をいえば、モサドは歴代のマパイ(労働党)政権との親和性が高かった。ために、右派のリクルード党が初めて政権をとると、モサドとの関係はギクシャクしたものになった。メナヘム・ベギン首相(1977-83)は、1950年代には第2代モサド長官イセル・ハルエルから監視の対象とされていたのである。
おなじくリクルード党のアリエル・シャロンは、後に首相(2001-06)になるのだが、ベギン政権下の1981年に国防相に就任した。当時イラクは原子炉を建設していた。原爆の開発をおそれるベギン首相は、空爆を決定した。アマン長官イェホシュア・サグイも「情報がない」と反対し、ことに第5代モサド長官イツハク・ホフィとシャロンは激しく対立する。
結果として「オペラ」作戦は成功し、A・J・クィネル『スナップ・ショット』のような小説やダン・マッキンノン『あの原子炉を叩け!』のようなルポタージュを生むのだが、選挙で大勝利をおさめたベギンはうかれてモサドの情報収集が作戦の成功に寄与したことを漏らしてしまった。ホフィ長官は、それまでの禁を破り、「暗闇」から顔をだして新聞社のインタビューに応じ、政治家がインテリジェンスについて軽々しくしゃべるものではない、と釘をさした。この行為は、ホフィ長官とベギンらとの確執に発展していく。
第二点・・・・イスラエルのインテリジェンス機関のなかで今日最大の人員を擁するアマンは、モサド創成期に類似の活動をおこなっていた。当然、両組織の間でせめぎあいが生じたのだ。しかし、アマン長官アミットが第3代モサド長官に就任後、アマンとモサドとの間には一線が画されることとなった。モサドがヒュミントに特化した情報収集であるのに対し、アマンは通信傍受などの技術的な情報収集活動に特化された。さらに、アマンは国家レベルの情報分析から政府への提言を受けもつ総合的な情報機関である、とされた。
ナティーフは、(旧)ソ連・東欧圏でイスラエルに移住を希望するユダヤ人を支援する組織で、その活動はしばしばモサドと競合する。
また、1957年に設置された国防省のラカム(科学連絡事務局)は、科学・技術の情報に特化した秘密組織である。指揮系統が明らかでなく、活動地域も活動内容もモサドと重なる。これだけでも火種の要素は十分にあったのだが、政治が介入することで、モサドにとっては厄介な存在となった。四半世紀の長きにわたって局長をつとめたベンヤミン・ブルンベルグは労働党とのパイプが太かった。ベギン政権下、シャロン国防相が裏でうごいて更迭された。後任のラフィ・エイタンは、アイヒマン捕獲ほかイスラエル諜報史にのこる活躍をした管理官だが、モサドで野心を満たすことができなかった。モサド退官後、シャロンに起用され、リクルード党寄りの度を深めるとともに、モサドとの対抗意識を露わにした。
ちなみに、シャバクの活動する地域は主として国内である。米国の連邦捜査局(FBI)、英国の情報局秘密情報部(SIS、旧称MI6)に相当する。モサドは米国の中央情報局(CIA)、英国の情報局保安部(SS、MI5)に相当する。
三、四は省いて、第五点に簡単にふれておこう。
イスラエルにおいてインテリジェンスが重視されるのは、国家建設以来周囲の国々、しかも圧倒的に人口の多い国々と常に緊張関係にあったからだ。インテリジェンスにおいて優位に立つことで、国家の安全を保ち、安全をゆるがす要因を排除していく。この方針は、イスラエルのどの情報機関にも共通していたから、基本的なところで一致協力することができた。各情報機関の結束の成果は、第三次中東戦争に端的にみられる。
今日、イスラエルの「情報コミュニティ」は、次のような組織構成となっている。
首相府のなかに情報担当長官会議(ヴァラシュ委員会)があり、モサド長官がその長をつとめる。委員会の長たるモサド長官は、首相に対して報告する義務があり、首相の指令に従ってうごく。
委員会を構成する情報担当長官は、次の組織の長である。すなわち、モサド、シャバク(旧称シン・ベト)、アマン、ナティーフ、警察公安部、外務省政治分析センター(CPR)である。
そして、モサドの組織は、(1)管理担当副長官の下に総務、防諜、分析、訓練、技術支援、工作調整をそれぞれ担当する課が置かれている。また、(2)工作担当副長官の下に、対外情報収集、偵察・尾行・盗聴、他国情報機関との情報交換、国外ユダヤ人の保護と移住援助、実行部隊、プロパガンダ、技術工作をそれぞれ担当する部門が置かれている。
かくのごとくイスラエルのインテリジェンス組織は洗練されたものとなっているのだが、問題は戦略である。
イスラエルは建国以来、遠交近攻、つまりシリアやヨルダンなど周辺アラブ諸国に対抗するため、トルコやイランなどとの関係を樹立するという戦略を採用した。
しかし、建国から半世紀をへた今、中東の地政学はおおきく変化した。イスラエルとその周辺のエジプトとヨルダンの関係は安定し、イラクのフセイン政権は崩壊した。逆に、外周のイランは核兵器開発に手をのばし、イスラエルの潜在敵国に変貌した。スーダンやエチオピアは、ソ連勢力圏への移行をへて、ソ連解体後は「混乱状態」にある。
こうした地政学的変化にもとづいて中長期的戦略を改めねばならないのだが、イスラエルは「冷戦終結後は外周戦略に代わる長期的な戦略が見い出せていないようにも見える」。
そして、「中長期的戦略のない所でインテリジェンスは有効に機能しない」と本書は評する。この評語を疑う者は、わが日本の北方領土をめぐる政官の迷走を顧みるとよい。
□小谷賢『モサド -暗躍と抗争の六十年史-』(新潮社、2009)
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