語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発>内部被曝対策に不可欠な人的ネットワーク

2011年09月03日 | 震災・原発事故
 宮台真司は、インターネットのニュース解説番組で、かねて原発をめぐる権益ネットーワークやそれを支える社会構造について議論してきた。原発事故直後から、政府や東電の言うことを真に受けたらとんでもないことになる、と言ってきた。
 莫大な利益をあげる電力会社は、地域の放送局、新聞社、企業に出資する地域経済団体のボスで、大学にも研究資金を提供する。そんな日本で、学者やマスコミの情報に依存するのは自殺行為だ。現に、真に受けたらとんでもないことになった。

 問題になったのは、政府は内部被曝の評価に必要なデータを十分に公開していないことだ。政府の責任もあるが、「安心できるのかできないのか、はっきりしろ」と要求する市民にも責任がある。
 内部被曝の危険については、学会内の統一見解がない。政府ごときに、安心できるのかどうかを評価する能力はない。
 市民は、「能力もないのに政府が評価しようとするな、市民が評価するからデータを出せ」と要求すべきだ。

 むろん、専門家が一致しないデータ評価について、市民が評価するのは難しい。その時に大切になるのが、市民ネットワークだ。周囲に詳しい人を探してデータ評価の仕方を尋ねまわり、その人を囲んで話し合う。皆の一致がなくてもよい。勝手に思いこまず、付和雷同せず、ああでもないこうでもないと話し合い、自分で決める。
 宮台も、友人たちに相談しまくった。震災直後、友人たちの勧めにしたがってガイガーカウンター2台で線量を測った。1台は空間線量(ガンマ線)だけでなくアルファ線が測れる。友人たちは、都内各所で自発的に空間線量と植え込みや地面のベータ線を測った。こうした計測をもとに、すぐに当時4歳と1歳の娘たちを知人の子と一緒に疎開させた。

 内部被曝研究が手薄な理由・・・・
 (a)政治的な文脈だ。原爆が投下された広島と長崎では、内部被曝調査が行われたが、米政府が公表を禁じたため、我々はいまだに原爆投下後の内部被曝の知恵を活用できない。
 (b)統計学的な理由だ。限られた範囲のホットスポットで少数の癌患者が倍増しても、母集団(人類全体)についての放射線の危険を推定するにはサンプル数が足りない。統計的に有意な結果が得にくい。国際放射線防護委員会(ICRP)は、そうした問題に注意を喚起していない。
 しかし、最悪事態を最小化するという危機管理の基本に従い、内部被曝に最大限の注意を喚起すべきだ。これは社会的な倫理の問題だ。 

 そこで必要なこと・・・・
 (a)「科学の民主化」だ。科学的データ評価を市民がどう受け止めるべきかについて、科学者と市民とつなぐミドルマン役が必要だ。60年前に社会心理学者ラザースフェルドが提唱したことだ。
 (b)「民主の科学化」も必要だ。話し合うだけでは民主主義ではない。「空気に縛られる社会」から「知識を尊重する社会」への脱皮が必要だ。子どもの疎開も、知識に基づくことが大切だ。

 転居について家族の意見が割れるのは当然だ。内部被曝の感受性は子どもが圧倒的に高いが、再就職や近隣社会への適応を含めて、大人や高齢者には転居は困難だ。
 こういう場合のガイドラインを政府でなく市民が考えるべきだ。
 今回残念なことに、多くの親は自分の子どもだけを疎開させた。そこに日本社会の劣化を見る。
 避難先を持っているなら、隣近所や親族の子も一緒に連れていくべきだ。子どもも疎開先で寂しくなくなるし、経済的格差も緩和できる。  

 以上、宮台真司【注】((首都大学東京教授/社会学)「安全だとも危険だとも言えない状況で不可欠な人的ネットワーク」(「週刊朝日」2011年9月9日号)に拠る。

 【注】「【震災】原発立地を住民が決める根拠 ~エネルギーの共同体自治~
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コメント (2)
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【読書余滴】鶴見俊輔の書評術

2011年09月03日 | 批評・思想


 期待の次元と回想の次元を区別し、回想だけで終わらせるのが科学主義だとすれば、そうではない期待の次元における思想というものをなるべく大切にしたい。書評でいえば、期待の次元で読んだものを読者に提出したい。この本はいまの日本にとって新しいものを出している、という思いを書きとめておきたいし、人にも知ってほしい。
 新しい風景を見せるのが、私(鶴見俊輔)の書評の戦略だ。

 まずいところを鋭く抉ることを通して、新しい世界を垣間見せる書評芸は、私(鶴見)にはない。
 非常に大きな影響力をもつ困った思想の場合には、取り上げてけなしたい。が、そういうのは余り出てこない。ヒトラー『わが闘争』のような本が出てくれば、はっきりそれに対決する書評が必要だ。しかし、そんな本は、余り出てこない。
 そういう困った思想は、政治家あるいは官僚の起こす事件として出てくる。それに対する批判は、書評欄の役割ではない。

 3、4年前まで遡る自由を許してくれれば、もっと書評できる。問題は時間だ。本が出てから1、2週間のあいだに書評を書かなければならない。読んでみて重大な見落としは、10年、20年の幅をもって現れる。その期間に重大な見落としがあったといえるような、そんな自由を与えてくれる書評欄がほしい。
 <例>綱島梁川『東洋思想史の研究』。貝塚茂樹が「これ意外にいい本だよ」というので読んでみると面白い。綱島は、明治末の神秘家で、結核を患っていた。その人が貝塚が感心するほどの中国思想史を書いた。何十年にもわたり見落とした本を自由自在に出せるような、時間の幅が書評欄にできないといけない。

 New york Review of Books や London Times Litterary Supplement の長文の本格的な書評文化が日本ではついに育たなかった原因は、時間だ。百年の幅をもって書評してもいい、という欄ができればいい。それも、旧著発掘だけではなくて、新解釈を混ぜたようなかたちで。

 いまの短い書評でも「この本おもしろいよ」と責任をもっていえるが、その程度のことだ。「暮らしの手帖」ふうな「テストして読んだ、これはおもしろい」という署名入りの広告だ。
 原稿をもっと短くしていけば、またおもしろいかもしれない。江戸時代によくあった欄外注。テキストをまわして、仲間が「ここはおもしろ」「ここはどうかな」と余白に注をつける。アメリカで公刊前にまわしている一種のミミオグラフ・コピーのようなものだ。藤田茂吉『文明東漸史』(1884年刊)には欄外注が入っている。渡辺崋山と高野長英の果たした役割を明治に入ってから広く知らせようと書かれた本だ。そして、初版本にだれかが手を入れた欄外注を次の版で生かしている。その高野長英伝の異本と思われる写本が慶応大学の図書館にあった。江戸時代の読者は少ないから、本が読み手のあいだをまわるうちにだんだん欄外注がつけられてきたのだ。
 中江兆民は、「ここのところ、得意の説なり」なんて自分の本に自分で欄外注をつけている。友だちにもつけてもらう。自然科学の世界では批判がくり返し出てくるから、欄外注みたいなものはあることはあるだろうが、人文科学、社会科学、思想史の世界ではなかなかない。

 旧著と新著をとり混ぜることでいえば、古在由重『現代哲学』(1937年)を戦後マルクス主義が解禁になったとき取り上げて、「これがいちばんいい、いまたくさん出ている西洋哲学の本はこの本にはるかに及ばない」とパッといえたらいい。私(鶴見)は、『現代哲学』の改版が出たときの文庫本の解説でそのことを書いた。古在が亡くなったときにも、追悼文でそのことを書いた。「言論の自由があることは、マルクス主義哲学にとってなんのプラスにもならなかった」と。しかし、書評欄ではなかった。こういういい本をそういうかたちで紹介するメディアがない。

 書評文化がいまのようなかたちでしか成立していない、ということは、日本の知的世界がそれだけ成熟していない、ということだ。英国では成熟している。それは原稿料の多寡によるものではない。
 ジョージ・オーウェルはかなり貧しい暮らしをしていたが、彼は手紙の中で「書評を書くのが好きなんだ」と言っている。「だけど小説にくらべておどろくほど原稿料が少ないので、仕方ないから小説を書いている」。彼の全著作を読んでみると、小説と書評のどちらがいいか、かなり疑問がある。書評の方に、ボーイズ・ウィークリーとかドナルド・マッギルの漫画とか、英国の草花を論じたものとか、イヴリン・ウォーを論じたものとか、ヘンリー・ミラー論「鯨の腹の中で」など、不朽の秀作がある。オーウェルの小説はそんなにいいものではない。

 私(鶴見)は、本を読みながら青線・赤線を引く。それが編集だという考え方もできる。そうすることで、もう一つの本をつくっている。スキー場で上から下を見下ろすと、凹凸が見える。その凹凸をどうやって走り抜けるかを考えるように、本を読むこともその凹凸を走り抜けることなのだ。あらゆる言葉が均等に並んでいたら、本なんて読めるわけない。ある概念を自分の関心で刺し貫けば、自分にとってのスキーのコースが自分の中でできるわけだ。そういうことが読書だと思う。自分の関心で対峙すれば、同じテキストに対して別の解釈が成り立つ。テキストのどの箇所をこう解釈したと明示すれば、ゆがめたということにならない。たとえ歪めたとしても、歪めた証拠は残る。

 以上、鶴見俊輔『期待と回想』(晶文社、1997)に拠る。
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