後藤田正晴には一種の公正さがあり、関係する者の人となりをよく見ている。先を読む力があるし、行動において果断だ。
阪神・淡路大震災を例にとろう。
1月17日に地震が起きたとき、後藤田は選挙区(徳島)にいた。徳島からの救援隊が、一番最初に警察から行った。淡路に飛んでいった。竹下登から電話があり、復興委員会を政府にすぐ作ろう、中に入ってくれ、と頼まれて入った(平岩外四・経団連名誉会長とともに特別顧問となる)。
委員長は、後藤田の旧制高校の後輩、下河辺淳・東京海上研究所理事長/元国土事務次官。
「この人は、日本の戦後の国土開発の中心人物です。彼は大変な勉強家、努力家、それから会議の運び方を見ていると、これくらい上手な人はないね。非常に巧みだ。だから委員会の意見というのは彼がまとめたようなものですよ。他の人の意見はいろいろあったけれど、下河辺君がまとめたと言って間違いない。前日に僕のところに来るんです。そして彼の考え方を述べる。その時には国土庁の次官も連れて、ああそうか、というようなことで、その時は僕はもうほとんど何も意見を言う必要がなかったですけどね」
官僚主導とはかくの如きか、と思わせる一節だが、見るべきものは見、言うべきことは言っている。
「ただ、ここで僕はいまだに感じているのは、要するに、神戸の復興事業というのがどうしても開発の手法なんだよ。僕はそのことを言ったことがあるんですよ。復興対策本部の参与に的場順三君がなっていた。これまた、なかなかの理論家で、的場君もまたしょっちゅう来ていたので、僕は、どうも開発手法というのは少しおかしくないか、開発ではなくて生活の復興でなかったらあかんのと違うか、ということを時々言ったことがあるんですよ。今でも僕はその点についての多少、なんというか、憾みみたいなものを持っている。そういう思いがしますね」
「災害復旧なんていう時に素人のような議論だと人は言うかもしれないけれども、一番ヶ瀬康子さん【注1】などが言っていることにもう少し耳を傾けなければならなかったのではないか、という気がしますね」
果たして、開発の手法は二次厄災、「復興災害」を招いた【注2】。
震災に対する村山内閣の対応の鈍さに批判が集中した。社会党政権だから対応が遅い、という批判も出た。
これについて、後藤田は次のように述べる。
「そういう批判があったから、僕は大勢の席で言ったんです。遅いのは当たり前だ、誰が代わってやったらできるんだ、と言ったんです。仕組みができていない。情報伝達が遅いというんだな。自由民主党の政権時代に、自然災害についての情報の報告は官邸の内閣情報調査室から国土庁に移したんです。国土庁というのは、災害が起きたときの緊急のエマージェンシーの仕事をやるところではないんだ。あそこはガードマン会社が宿直をしている。夜は役所の人間はいないんだ。/僕が官房長官のとき伊豆の噴火があった。夕方ですよ。連絡したっておらん。みんな出てきてくれと言って、それで手配をしたんだ。東京都へもね。そういう役所だから、地震だといっても駄目なのは決まっているんですよ。だから、システムができてないときに、社会党内閣だから云云と言ったってそれは無理だよ、と僕は言った。自民党政権だってできないですよ。だから直せと言って、あれは直させたんですよ」
1986年11月21日の三原山大噴火に係る危機管理については、佐々淳行が回想している【注3】。当時、官房長官だった後藤田は、国土庁の鈍い動きに業を煮やし、中曽根総理に進言。総理に諮り、その命令で内閣で処理することとした。そして、内閣は防衛庁、運輸省その他と折衝。最終的には38隻の艦船を伊豆七島・大島へさし向けた。
ちなみに、国土庁は何をしていたかというと、関係19省庁の担当課長を防災局に集めて会議をしていた。議題1「災害対策本部の名称」。議題2「元号を使うか、西暦を使うか」、議題3「臨時閣議を招集するか、持ち回り閣議にするか」。そして、ダラダラと続いた「まさに官僚的な、被災者不在の的外れ密室会議」(と佐々は嘲笑する)が23時45分にようやく終わった時、とっくに救出艦船団は大島に向かっていた。そして、翌日4時までに住民及び観光客13,000人は島を脱出した。
ここで注目すべきは、後藤田は回顧にあたって自分の功績を誇っていないことだ。また、自分と同じ危機管理能力を余人に求めていない。求めているのは、仕組みである。誰が担当することになっても機能する体制だ。
この点、いささかナルシシズムの気のある佐々とは異なる。佐々は、何かにつけてオレが、オレが、と自分を表に出したがる。
この違いは、後藤田に軍人の経歴があるからかもしれない。そう推定する根拠の一つは、特攻隊の生き残り、田中六助に寄せる深い同情だ。時代を共有した者同士の共感といってよいかもしれない。
「私が一番感心するのは、【引用者捕捉:田中六助が】自分の人生は大東亜戦争で終わったんだと言っていたことです。あとは、僕もよく言うんだけれど、プレミアム付きだ、といったような諦観、人生観を持っていたのではないかなと思います。非常にできる惜しい人が早く死んだなという気がします」
【注1】東洋大学教授(当時)/日本女子大学名誉教授。専門は社会福祉。
【注2】「【震災】「創造的復興」による二次災厄 ~復興災害~」、「【震災】復興のカギはパイプ役(住民の自主組織) ~神戸の過ち、奥尻の教訓~」
【注3】佐々淳行『仕事の<<実例>>「危機管理術」』(三笠書房、2001。後に『重大事件に学ぶ「危機管理」』、文春文庫、2004)第2章「初めにどう動くかで勝負は決まる」、同『わが上司後藤田正晴 -決断するペシミスト-』(文藝春秋、2004)第5章「総理官邸の『危機管理』」、及び同『ほんとに彼らが日本を滅ぼす』(幻冬舎、2011)第2章「危機管理の検証」。
以上、後藤田正晴『情と理 ~後藤田正晴回顧録~(上下)』(講談社、1998)に拠る。
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阪神・淡路大震災を例にとろう。
1月17日に地震が起きたとき、後藤田は選挙区(徳島)にいた。徳島からの救援隊が、一番最初に警察から行った。淡路に飛んでいった。竹下登から電話があり、復興委員会を政府にすぐ作ろう、中に入ってくれ、と頼まれて入った(平岩外四・経団連名誉会長とともに特別顧問となる)。
委員長は、後藤田の旧制高校の後輩、下河辺淳・東京海上研究所理事長/元国土事務次官。
「この人は、日本の戦後の国土開発の中心人物です。彼は大変な勉強家、努力家、それから会議の運び方を見ていると、これくらい上手な人はないね。非常に巧みだ。だから委員会の意見というのは彼がまとめたようなものですよ。他の人の意見はいろいろあったけれど、下河辺君がまとめたと言って間違いない。前日に僕のところに来るんです。そして彼の考え方を述べる。その時には国土庁の次官も連れて、ああそうか、というようなことで、その時は僕はもうほとんど何も意見を言う必要がなかったですけどね」
官僚主導とはかくの如きか、と思わせる一節だが、見るべきものは見、言うべきことは言っている。
「ただ、ここで僕はいまだに感じているのは、要するに、神戸の復興事業というのがどうしても開発の手法なんだよ。僕はそのことを言ったことがあるんですよ。復興対策本部の参与に的場順三君がなっていた。これまた、なかなかの理論家で、的場君もまたしょっちゅう来ていたので、僕は、どうも開発手法というのは少しおかしくないか、開発ではなくて生活の復興でなかったらあかんのと違うか、ということを時々言ったことがあるんですよ。今でも僕はその点についての多少、なんというか、憾みみたいなものを持っている。そういう思いがしますね」
「災害復旧なんていう時に素人のような議論だと人は言うかもしれないけれども、一番ヶ瀬康子さん【注1】などが言っていることにもう少し耳を傾けなければならなかったのではないか、という気がしますね」
果たして、開発の手法は二次厄災、「復興災害」を招いた【注2】。
震災に対する村山内閣の対応の鈍さに批判が集中した。社会党政権だから対応が遅い、という批判も出た。
これについて、後藤田は次のように述べる。
「そういう批判があったから、僕は大勢の席で言ったんです。遅いのは当たり前だ、誰が代わってやったらできるんだ、と言ったんです。仕組みができていない。情報伝達が遅いというんだな。自由民主党の政権時代に、自然災害についての情報の報告は官邸の内閣情報調査室から国土庁に移したんです。国土庁というのは、災害が起きたときの緊急のエマージェンシーの仕事をやるところではないんだ。あそこはガードマン会社が宿直をしている。夜は役所の人間はいないんだ。/僕が官房長官のとき伊豆の噴火があった。夕方ですよ。連絡したっておらん。みんな出てきてくれと言って、それで手配をしたんだ。東京都へもね。そういう役所だから、地震だといっても駄目なのは決まっているんですよ。だから、システムができてないときに、社会党内閣だから云云と言ったってそれは無理だよ、と僕は言った。自民党政権だってできないですよ。だから直せと言って、あれは直させたんですよ」
1986年11月21日の三原山大噴火に係る危機管理については、佐々淳行が回想している【注3】。当時、官房長官だった後藤田は、国土庁の鈍い動きに業を煮やし、中曽根総理に進言。総理に諮り、その命令で内閣で処理することとした。そして、内閣は防衛庁、運輸省その他と折衝。最終的には38隻の艦船を伊豆七島・大島へさし向けた。
ちなみに、国土庁は何をしていたかというと、関係19省庁の担当課長を防災局に集めて会議をしていた。議題1「災害対策本部の名称」。議題2「元号を使うか、西暦を使うか」、議題3「臨時閣議を招集するか、持ち回り閣議にするか」。そして、ダラダラと続いた「まさに官僚的な、被災者不在の的外れ密室会議」(と佐々は嘲笑する)が23時45分にようやく終わった時、とっくに救出艦船団は大島に向かっていた。そして、翌日4時までに住民及び観光客13,000人は島を脱出した。
ここで注目すべきは、後藤田は回顧にあたって自分の功績を誇っていないことだ。また、自分と同じ危機管理能力を余人に求めていない。求めているのは、仕組みである。誰が担当することになっても機能する体制だ。
この点、いささかナルシシズムの気のある佐々とは異なる。佐々は、何かにつけてオレが、オレが、と自分を表に出したがる。
この違いは、後藤田に軍人の経歴があるからかもしれない。そう推定する根拠の一つは、特攻隊の生き残り、田中六助に寄せる深い同情だ。時代を共有した者同士の共感といってよいかもしれない。
「私が一番感心するのは、【引用者捕捉:田中六助が】自分の人生は大東亜戦争で終わったんだと言っていたことです。あとは、僕もよく言うんだけれど、プレミアム付きだ、といったような諦観、人生観を持っていたのではないかなと思います。非常にできる惜しい人が早く死んだなという気がします」
【注1】東洋大学教授(当時)/日本女子大学名誉教授。専門は社会福祉。
【注2】「【震災】「創造的復興」による二次災厄 ~復興災害~」、「【震災】復興のカギはパイプ役(住民の自主組織) ~神戸の過ち、奥尻の教訓~」
【注3】佐々淳行『仕事の<<実例>>「危機管理術」』(三笠書房、2001。後に『重大事件に学ぶ「危機管理」』、文春文庫、2004)第2章「初めにどう動くかで勝負は決まる」、同『わが上司後藤田正晴 -決断するペシミスト-』(文藝春秋、2004)第5章「総理官邸の『危機管理』」、及び同『ほんとに彼らが日本を滅ぼす』(幻冬舎、2011)第2章「危機管理の検証」。
以上、後藤田正晴『情と理 ~後藤田正晴回顧録~(上下)』(講談社、1998)に拠る。
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