語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【森有正】アイデンティティと「経験」

2013年01月13日 | 批評・思想
 (1)『遙かなノートルダム』所収の9編のエッセイは、「赤いノートルダム」を除いてすべて1962年以後に書かれている。
 1962年は森有正にとって重要だ。森にとって、この年に漸く戦争が終わったからだ。日本では、1945年8月15日に戦争が終わった。<ところが、僕にとっては、今日になってやっと、《戦争》が終わりを告げたのである。>【1962年8月15日の日記】。その少し先では、<こうしてみると、僕にとって戦後は始まったばかりなのである。>とも森は記す。

 (2)(1)の年の末に、この体験を詳しく描写している【「偶感」、(『旅の空の下で』所収】。
 この日、郊外の閑散たる通りを歩いていたら、<突然、啓示が起きた>のだ。家々が、木々が、車が見えた。30年前と同じ自分に戻った。<今までは何物かにとり憑かれていて、自分自身では何も見ず、何も本当は感ぜずにいたことに気がついた。>ところが今、家々、木々、車を見ている。《接触》が急に回復した。<その事実に気がついた時、僕は、狂気が自分から立ち去ったことが判った。>・・・・1932、1933年以来、ずっと森と世界を隔てていた透明の帷が落ち、世界を直に感じることができるようになった。
 それは想像でもなく感情でもなく、一種の感覚だった。<一言でいってしまえば一つのイダンティテの感覚だった。それは稚い頃、東京の暑い日盛りに、木上りをしたり、新宿駅に汽車を見に行ったり、多摩川へ小魚をとりに行ったりしていたその子供がこの僕なのだ、という感覚だった。(中略)問題は、その子供であった僕と、今それとの同一性を突如として意識した僕との間に、何十年も介在していたもう一つの僕は一体何だったのだ、という疑問である。>かくて、戦争のもたらす狂気、人間そのものの狂気が払拭され、はじめて自分の目で、パリ、自分の周囲にあるすべてを見ることができるようになった。

 (3)森の啓示体験は、3つのフェーズに分析できる。
   (a)少年時代の森Aから愛される、すでに大人になった森
   (b)現実にすでにその大人になった森から回想される少年時代の森B
   (c)少年時代の森Aから大人になった森を想像する(a)の視野に、すでに大人になった森から少年時代の森Bを回想する(b)の視野が侵入した結果、少年時代の森Aからじかに見えるようになった少年時代の森B
 (c)では、少年時代の森がAとBとに二重化している。森有正の父(森明)は三男で牧師だったが、有正が14歳のとき、1925年に36歳の若さで亡くなった。父親が死んだあと、「私を見る目」が欠如していた、と森有正は書く【「遙かなノートルダム」】。「私を見る目」は「父の目」であると同時に「神」でもあっただろう。それが、1962年8月15日に突如として回復したのだ。まだ父親が生きていた頃の少年時代の感覚の回復は、亡父の目の復活であると同時に「神」の露頭でもあった。<私において、っじぶんの経験の紀元を問題にするならば、それはフランスに渡ったことではなく、父の死をめぐる私の姿勢の中に求められなければならない。>【「遙かなノートルダム」】

 (4)森父子の遠近法も3つのフェーズに分析できる。
   (a)森少年Aから見た父
   (b)父から見た森少年B
   (c)森少年Aから父を見た(a)の視野に、父から森少年Bを見た(b)の視野が侵入した結果、森少年Aからじかに見えるようになった森少年B

 (5)(2)の「一つのイダンティテの感覚」に戻ると、森は中年の大人としてパリ郊外の誰もいない道を歩いているのだが、精神は幼年時代にタイムスリップし、「夢」の中で子供の時間を生きている。そして、(3)-(c)のとおり、森少年が懸命に手を動かして木登りをしているこの「現在」の時制を、いわば未来が回想することになる手が突き破って露出しているのだ。
 つまり、不意に少年に戻った森は、<もみじの木によじ登った手>をたんに自分の目からだけでなく、当時はまだ生きていた「父の目」からも同時に見ているのだ。<それで思わず自分の手を見たのです。>
 父の死後失われていた「私を見る目」が回復し、自分の手を自分の目と神/父の目の二重の目で見た後には、風にそよぶプラタナスなどを、これまでまるで見たことのなかったかのように見えたことだろう。だから、森ははじめて、自分の周囲にあるものを自分の目で見ることができるようになった。《接触》が急に回復した・・・・父との、神との。
 それが「一つのイダンティテの感覚」だ。
 この転回的な出来事が、1932、1933年から1945年の敗戦後もずっと持続していた森の裡の戦争を、ようやく終わらせたのだ。これは無論、それまで森が「カタクリ粉を湯で捏ね」続けていたからこそ、その「混濁した半流動体」状の世界が「ある瞬間からおもむろに透明になり始め」たのだ。それは1962年の或る朝、不意に起こった。森の「戦争」が「一つのイダンティテの感覚」とともに終わった。そして、森の戦後が始まった。(3)、(4)の2つの遠近法が交錯するあの特異な感覚は、、来るべき「戦後」の遠近法なのだ。

□森有正『遙かなノートルダム』(講談社文芸文庫、2012.10)の解説、山城むつみ「来るべき「戦後」のために」のうち「Ⅰ イダンティテの感覚」

 【参考】
【森有正】フランスの自然、日本の自然 ~サルトル~
【旅】フランス ~ノートル・ダム~
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