(1)それまで外側から日本に触れていた森有正は、その戦後において、つまり「一つのイダンティテの感覚」以降、「自分がその中に在る」ことを、地球が重層的に決定されていたあのヴィジョン【注】のように鮮烈に経験するようになる。
(a)日本Aから見えるフランス
(b)そのフランスから見える日本B
(c)日本Aからフランスを見ている(a)の視野に、フランスから日本Bを見ている(b)の視野が侵入した結果、日本Aからじかに見えるようになった日本B
(c)では、同じ一つの日本が二重化している。このフェーズでは、フランスはもはや特権的な視座になりえない。<私において、自分の経験の起源を問題にするならば、それはフランスへ渡ったことではなく、父の死をめぐる私の姿勢の中に求められなければならない>ということがはっきりする。
(2)森は、フランスから見える日本について、まるで自分はフランス人になったかのように書いたのではない。森は、フランスから見たその日本のなかに同時に自分が日本人として存在していることを痛感しているのだ。「一つのイダンティテの感覚」を強いるこの奇妙な、交錯した遠近法において「日本」について書いた。
(3)森は、日本語の構造に固執して容赦のない批判的分析を展開した。フランス語に比べればまるで日本語はまだ言語になり切っていない半言語であるかのように。しかし、それは、彼の「経験」というプリンシプルが言葉と経験との関係を根柢的に問い直すものだからにほかならない。
森によれば、経験は名辞を定義するものだ。ひとつの自明の概念、例えば「自由」という名について「ああ、自由とはこういうことだったのか!」というような悟り(そのようなものとして直接受け取る)を経験するとき、その経験は「自由」という言葉を定義するものとなっている。このような意味での定義をもたらさないような経験を、森は経験とは呼ばない。これを体験と呼んで区別している。
ポイントは、「自由」という名辞をあらためて定義するような経験が確実に生きられているか否かだ。森は、それを自他に徹底的に問う。経験によって言葉を定義する不断の運動に、森は思想の一切を賭けている。
だから、この運動を「日本」に対しても貫徹しようとするとき、それを阻害し停滞させる要因が日本語の構造に見られるなら、経験による定義の運動によってこの障害を突破するために、その構造を分析する。それは、日本語がこのような構造のものである以上、日本人の経験は言葉(名辞)を定義するような「経験」にはついになりえまい、という宿命論と紙一重の分析だ。
(4)1955年に夙に吉本隆明が明察していたとおり、<日本のコトバの論理化は、日本の社会構造の論理化なしには不可能である>【「蕪村詩のイデオロギー」】。
この「日本の社会構造の論理化」が、森のいわゆる「経験」だ。例えば「自由」、「戦争放棄」、「個人」、「社会」、など。こうした名辞を経験によって定義する不断の運動だけが「日本の社会構造の論理化」を成し遂げる。なぜなら、森によれば、敗戦によって「終戦の詔勅」があり「平和憲法」が制定されたにもかかわらず、個々の日本人において「戦争」はまだ終わっていないからだ。「戦争放棄」という言葉も「自由」という言葉も、1962年に森自身がパリで経験したように、「カタクリ粉を湯で捏ねる」ように地道に積み上げられた運動が促した結果として一人一人の個人がそれぞれの「戦争」を終わらせるに至ったとき初めてそうした個々の経験によって定義されて、実質的に支えられるようになるのだ。憲法の文言を定義するようなそういう生活のかたちがあるのだ。
<茶碗一つ洗うにも、ストーヴ一つたくにも、肉を一つ切るにも、それが表れてくる。茶碗一つ正しく洗えない人間がむつかしいことを論じても僕は信じないのである。上手、下手の問題ではない。正しいか正しくないかの問題である。更に問題は、それがどこまで深まるか、という問題である>【『砂漠に向かって』1966年9月18日】。
憲法の条文について小賢しいディベートをする以前に、まず生活の正しいかたちを個々が練り上げていることが前提なのだ。それ抜きには、どれほど抜け目なく議論しようと、「自由」という言葉も「戦争放棄」という言葉も空っぽの名辞にすぎない。
逆に、こうした基軸を見失わない限り、<宿命論に陥ることなしに、この問題を正しく論ずる>【「パリの生活の一断面」末尾の「付記」】ことは不可能ではない。ちなみに、ここでういう「この問題」とは、「日本あるいは東洋とヨーロッパ」に関する問題だ。
森の言葉は、まさにその可能性の「暗黒な経験の坑道」を掘り進んだ。森は、経験によって既存の言葉を定義し直す運動を「日本」に対して貫徹するために、その障害となる日本人の経験の体質と日本語の構造を批判的に分析し記述していたのだ。
【注】「カルティエ・ラタンの周辺にて」【『旅の空の下で』所収】で森有正が記した「この頃」の夢を山城むつみが整理した3つのフェーズ【「来るべき「戦後」のために」のうち「Ⅰ イダンティテの感覚」、森有正『遙かなノートルダム』(講談社学術文庫)の解説】
(a)地球Aから見える月
(b)その月から見える地球B
(c)地球Aから月を見ている(a)の視野に、月から地球Bを見ている(b)の視野が侵入した結果、地球Aからじかに見えるようになった地球B
□森有正『遙かなノートルダム』(講談社文芸文庫、2012.10)の解説、山城むつみ「来るべき「戦後」のために」のうち「Ⅱ 森有正の「日本」」
【参考】
「【森有正】アイデンティティと「経験」」
「【森有正】フランスの自然、日本の自然 ~サルトル~」
「【旅】フランス ~ノートル・ダム~」
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(a)日本Aから見えるフランス
(b)そのフランスから見える日本B
(c)日本Aからフランスを見ている(a)の視野に、フランスから日本Bを見ている(b)の視野が侵入した結果、日本Aからじかに見えるようになった日本B
(c)では、同じ一つの日本が二重化している。このフェーズでは、フランスはもはや特権的な視座になりえない。<私において、自分の経験の起源を問題にするならば、それはフランスへ渡ったことではなく、父の死をめぐる私の姿勢の中に求められなければならない>ということがはっきりする。
(2)森は、フランスから見える日本について、まるで自分はフランス人になったかのように書いたのではない。森は、フランスから見たその日本のなかに同時に自分が日本人として存在していることを痛感しているのだ。「一つのイダンティテの感覚」を強いるこの奇妙な、交錯した遠近法において「日本」について書いた。
(3)森は、日本語の構造に固執して容赦のない批判的分析を展開した。フランス語に比べればまるで日本語はまだ言語になり切っていない半言語であるかのように。しかし、それは、彼の「経験」というプリンシプルが言葉と経験との関係を根柢的に問い直すものだからにほかならない。
森によれば、経験は名辞を定義するものだ。ひとつの自明の概念、例えば「自由」という名について「ああ、自由とはこういうことだったのか!」というような悟り(そのようなものとして直接受け取る)を経験するとき、その経験は「自由」という言葉を定義するものとなっている。このような意味での定義をもたらさないような経験を、森は経験とは呼ばない。これを体験と呼んで区別している。
ポイントは、「自由」という名辞をあらためて定義するような経験が確実に生きられているか否かだ。森は、それを自他に徹底的に問う。経験によって言葉を定義する不断の運動に、森は思想の一切を賭けている。
だから、この運動を「日本」に対しても貫徹しようとするとき、それを阻害し停滞させる要因が日本語の構造に見られるなら、経験による定義の運動によってこの障害を突破するために、その構造を分析する。それは、日本語がこのような構造のものである以上、日本人の経験は言葉(名辞)を定義するような「経験」にはついになりえまい、という宿命論と紙一重の分析だ。
(4)1955年に夙に吉本隆明が明察していたとおり、<日本のコトバの論理化は、日本の社会構造の論理化なしには不可能である>【「蕪村詩のイデオロギー」】。
この「日本の社会構造の論理化」が、森のいわゆる「経験」だ。例えば「自由」、「戦争放棄」、「個人」、「社会」、など。こうした名辞を経験によって定義する不断の運動だけが「日本の社会構造の論理化」を成し遂げる。なぜなら、森によれば、敗戦によって「終戦の詔勅」があり「平和憲法」が制定されたにもかかわらず、個々の日本人において「戦争」はまだ終わっていないからだ。「戦争放棄」という言葉も「自由」という言葉も、1962年に森自身がパリで経験したように、「カタクリ粉を湯で捏ねる」ように地道に積み上げられた運動が促した結果として一人一人の個人がそれぞれの「戦争」を終わらせるに至ったとき初めてそうした個々の経験によって定義されて、実質的に支えられるようになるのだ。憲法の文言を定義するようなそういう生活のかたちがあるのだ。
<茶碗一つ洗うにも、ストーヴ一つたくにも、肉を一つ切るにも、それが表れてくる。茶碗一つ正しく洗えない人間がむつかしいことを論じても僕は信じないのである。上手、下手の問題ではない。正しいか正しくないかの問題である。更に問題は、それがどこまで深まるか、という問題である>【『砂漠に向かって』1966年9月18日】。
憲法の条文について小賢しいディベートをする以前に、まず生活の正しいかたちを個々が練り上げていることが前提なのだ。それ抜きには、どれほど抜け目なく議論しようと、「自由」という言葉も「戦争放棄」という言葉も空っぽの名辞にすぎない。
逆に、こうした基軸を見失わない限り、<宿命論に陥ることなしに、この問題を正しく論ずる>【「パリの生活の一断面」末尾の「付記」】ことは不可能ではない。ちなみに、ここでういう「この問題」とは、「日本あるいは東洋とヨーロッパ」に関する問題だ。
森の言葉は、まさにその可能性の「暗黒な経験の坑道」を掘り進んだ。森は、経験によって既存の言葉を定義し直す運動を「日本」に対して貫徹するために、その障害となる日本人の経験の体質と日本語の構造を批判的に分析し記述していたのだ。
【注】「カルティエ・ラタンの周辺にて」【『旅の空の下で』所収】で森有正が記した「この頃」の夢を山城むつみが整理した3つのフェーズ【「来るべき「戦後」のために」のうち「Ⅰ イダンティテの感覚」、森有正『遙かなノートルダム』(講談社学術文庫)の解説】
(a)地球Aから見える月
(b)その月から見える地球B
(c)地球Aから月を見ている(a)の視野に、月から地球Bを見ている(b)の視野が侵入した結果、地球Aからじかに見えるようになった地球B
□森有正『遙かなノートルダム』(講談社文芸文庫、2012.10)の解説、山城むつみ「来るべき「戦後」のために」のうち「Ⅱ 森有正の「日本」」
【参考】
「【森有正】アイデンティティと「経験」」
「【森有正】フランスの自然、日本の自然 ~サルトル~」
「【旅】フランス ~ノートル・ダム~」
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