(1)真砂女10句抄【注1】
あるときは船より高き卯浪かな
羅(うすもの)や人悲します恋をして
口きいてくれず冬濤みてばかり
白桃に人刺すごとく刃を入れて
鯛は美のおこぜは醜の寒さかな
路地住みの終生木枯きくもよし
今生のいまが倖せ衣被(きぬかつぎ)
恋を得て蛍は草に沈みけり
戒名は真砂女でよろし紫木蓮
蛍(ほうたる)を見るだけの旅佳かりけり
(2)鈴木真砂女(すずき まさじょ/本名:まさ)
1906年11月24日、千葉県鴨川市の老舗旅館「吉田屋」(現・「鴨川グランドホテル」)の三女として出生。日本女子商業学校(現嘉悦大学)卒。
22歳、日本橋の靴問屋の次男と恋愛結婚。一女を出産。夫が賭博癖の末に蒸発し、実家に戻った。
28歳、長姉が急死。義兄と再婚。
30歳、旅館に宿泊した海軍士官(年下、妻帯者)と不倫の恋に落ち、出征する彼を追って出奔。後、婚家に戻ったが、夫婦関係は冷え切った。
50歳、離婚、小料理屋「卯波」(銀座1丁目)を開店。保証人は丹羽文雄。
大場白水郎の「春蘭」を経て、久保田万太郎の「春燈」に入門。万太郎死後は安住敦に師事。生前、7冊の句集を刊行。1976年、『夕螢』により第16回俳人協会賞受賞。1995年、『都鳥』により第46回読売文学賞受賞。1999年、『紫木蓮』により第33回蛇笏賞受賞。ほかに、にエッセイ集『銀座に生きる』など。
2003年3月14日、没(享年96)。
「卯波」は2008年に一度閉店、孫によって移転再開。
娘は女優の本山可久子。
(3)没後10年インタビュー【注2】
神野紗希は20歳から「卯波」でバイト、いま9年目。
1935年、本山可久子が3歳のとき、可久子を置いて、真砂女は婚家を出た。この頃、真砂女は俳句を始めた。残した19冊の句帳(年代順)の最初のページに、<愛し子ととんぼ捕りたる日もありき>。句帳は絶対に子どもに見せなかった。真砂女の字は殴り書きで、その時どこに旅行したか、誰にどうだったか知らないと、判読できない。
可久子が小学校6年のとき、鴨川の真砂女のもとに疎開し、同居するようになった。女学校1年の途中、一字伯母たちが疎開していた茨城にいったが、いじめにあっって、また鴨川に帰された。真砂女は当時、可久子のことをたくさん詠んだ。<春の星子は懐に哲学書>。可久子が女学校から、試験を受けて男女共学の新制高校1年生に入った頃、ちょうど反抗期の頃のこと。<春愁や吾れを咎むる子の瞳>。
真砂女の俳句の魅力は、裏表がなくて、素直で率直な詠みぶりだ。ウソがない俳句だ。【神野紗希】
<子別れのその日たしかに木瓜の雨>を句帳に見つけたときは、心に沁みた。本当の親子になれたのは、真砂女が亡くなってからだ。句帳に残された俳句を通じて。
可久子が真砂女のもとを離れ、文学座に入り、女優の道を歩み始めた頃、<子とあればひと日は早し秋袷>。
可久子が最初の結婚に失敗して母のもとに戻った(再婚するまで晴海の公団住宅で同居した)ころ、<風鈴や泣きぐせつきし娘とあれば>。
1992年の正月、母娘は一緒に山口に行った。<初旅の無口またよし親子とは>・・・・真砂女は、「かに」とか「海が青」とか単語をちょこちょこっと書いておく。その場で17音にはしない。単語をピッピッと書いておくと思い出せるから、それを句にする、と言っていた。
真砂女は、80歳を超えてからもたくさん旅をした。「卯波」にも毎日行っていた。俳句の仕事もすごく増えた。葬式にも、香典だけ人にことづけるだけで済ますことなく、自分で行った。人に会うのが好きだった。80を過ぎてパワフルだったのは、ステーキが好きだったからかも。<敬老日ビーフステーキミディアムに>。肉を食べにホテル西洋に可久子と一緒に行ったり。食べるのはほとんど肉で、魚はめったに食べない。健啖家だった。コース料理を食べていると、可久子がスープ、オードブル、魚とすすんで、肉のころには残す。すると、「あら、あんた、要らないの。じゃ、あたしがもらうわ」って。ファッションの句も多かった。オシャレだった。食道楽、着道楽。老いて「いよよ華やぐ」という言葉どおりだった。無邪気、天真爛漫、お茶っぴい。
可久子は、母と、同志というか、友だちともちょっと違うし、そんな関係だった。わりと客観的に母を見ることができた。
真砂女の俳句は、女性がどこかで抱いたことのある感覚、「それ、私もある」と共感を呼ぶようなところがあって、もちろん俳句として格調も高いが、俗をいとわない、俗であることをうまく引き受けて、俗なところをしっかり持っている。それがまた、真砂女の句の不思議な魅力だ。【神野紗希】
真砂女は「私のは生活句ですから」って、よく言っていた。だから、身近なこと、思ったことをそのままに句にしていたのではないか。<人もわれもその夜さびしきビールかな>など。
「恋の軌跡をたどる旅」というNHKテレビの企画で、可久子は母と二人で長崎に出かけた(1995年)。三泊四日、寝起きを共にした。その時に初めて聞いたが、昭和13年に長崎に行った恋人の森さんを真砂女は追った。森さんは戦地に行ったので、真砂女は一人で東京へ帰った。関門海峡を船で渡った。だんだん九州の灯が遠ざかる。「あの時は怖いほどの寂しさだった。海に跳び込みたかったねえ」と言っていた。あの時の旅行で同じ女同士の思い、共通のものを感じることができた。自分勝手でわがままで、そのくせ内弁慶で泣き虫で、つくづく「可愛い女」だった。
<今生のいまが倖せ衣被>・・・・衣被はとても庶民的な食べ物。だからその程度なんだけれど、それが私の今の幸せだということ。「吉田屋」というあの大きな旅館の女将だった時の幸せと、今、「卯波」の女将で衣被のような庶民的な幸せと、その落差、というところか。
(4)芝居「真砂女」
大好評につき、再演。
●日時 2013年2月18日~27日
●場所 新国立劇場小劇場
●出演 藤真利子、本山可久子、谷昌樹、ほか
●その他 劇団朋友第43回公演
【注1】神野紗希・選「鈴木真砂女30句抄」(「俳句」2013年2月号)から抄出。
【注2】インタビュイー:本山可久子(女優、真砂女の子)、インタビュアー:神野紗希(俳人)「愛しの真砂女」(「俳句」2013年2月号)
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あるときは船より高き卯浪かな
羅(うすもの)や人悲します恋をして
口きいてくれず冬濤みてばかり
白桃に人刺すごとく刃を入れて
鯛は美のおこぜは醜の寒さかな
路地住みの終生木枯きくもよし
今生のいまが倖せ衣被(きぬかつぎ)
恋を得て蛍は草に沈みけり
戒名は真砂女でよろし紫木蓮
蛍(ほうたる)を見るだけの旅佳かりけり
(2)鈴木真砂女(すずき まさじょ/本名:まさ)
1906年11月24日、千葉県鴨川市の老舗旅館「吉田屋」(現・「鴨川グランドホテル」)の三女として出生。日本女子商業学校(現嘉悦大学)卒。
22歳、日本橋の靴問屋の次男と恋愛結婚。一女を出産。夫が賭博癖の末に蒸発し、実家に戻った。
28歳、長姉が急死。義兄と再婚。
30歳、旅館に宿泊した海軍士官(年下、妻帯者)と不倫の恋に落ち、出征する彼を追って出奔。後、婚家に戻ったが、夫婦関係は冷え切った。
50歳、離婚、小料理屋「卯波」(銀座1丁目)を開店。保証人は丹羽文雄。
大場白水郎の「春蘭」を経て、久保田万太郎の「春燈」に入門。万太郎死後は安住敦に師事。生前、7冊の句集を刊行。1976年、『夕螢』により第16回俳人協会賞受賞。1995年、『都鳥』により第46回読売文学賞受賞。1999年、『紫木蓮』により第33回蛇笏賞受賞。ほかに、にエッセイ集『銀座に生きる』など。
2003年3月14日、没(享年96)。
「卯波」は2008年に一度閉店、孫によって移転再開。
娘は女優の本山可久子。
(3)没後10年インタビュー【注2】
神野紗希は20歳から「卯波」でバイト、いま9年目。
1935年、本山可久子が3歳のとき、可久子を置いて、真砂女は婚家を出た。この頃、真砂女は俳句を始めた。残した19冊の句帳(年代順)の最初のページに、<愛し子ととんぼ捕りたる日もありき>。句帳は絶対に子どもに見せなかった。真砂女の字は殴り書きで、その時どこに旅行したか、誰にどうだったか知らないと、判読できない。
可久子が小学校6年のとき、鴨川の真砂女のもとに疎開し、同居するようになった。女学校1年の途中、一字伯母たちが疎開していた茨城にいったが、いじめにあっって、また鴨川に帰された。真砂女は当時、可久子のことをたくさん詠んだ。<春の星子は懐に哲学書>。可久子が女学校から、試験を受けて男女共学の新制高校1年生に入った頃、ちょうど反抗期の頃のこと。<春愁や吾れを咎むる子の瞳>。
真砂女の俳句の魅力は、裏表がなくて、素直で率直な詠みぶりだ。ウソがない俳句だ。【神野紗希】
<子別れのその日たしかに木瓜の雨>を句帳に見つけたときは、心に沁みた。本当の親子になれたのは、真砂女が亡くなってからだ。句帳に残された俳句を通じて。
可久子が真砂女のもとを離れ、文学座に入り、女優の道を歩み始めた頃、<子とあればひと日は早し秋袷>。
可久子が最初の結婚に失敗して母のもとに戻った(再婚するまで晴海の公団住宅で同居した)ころ、<風鈴や泣きぐせつきし娘とあれば>。
1992年の正月、母娘は一緒に山口に行った。<初旅の無口またよし親子とは>・・・・真砂女は、「かに」とか「海が青」とか単語をちょこちょこっと書いておく。その場で17音にはしない。単語をピッピッと書いておくと思い出せるから、それを句にする、と言っていた。
真砂女は、80歳を超えてからもたくさん旅をした。「卯波」にも毎日行っていた。俳句の仕事もすごく増えた。葬式にも、香典だけ人にことづけるだけで済ますことなく、自分で行った。人に会うのが好きだった。80を過ぎてパワフルだったのは、ステーキが好きだったからかも。<敬老日ビーフステーキミディアムに>。肉を食べにホテル西洋に可久子と一緒に行ったり。食べるのはほとんど肉で、魚はめったに食べない。健啖家だった。コース料理を食べていると、可久子がスープ、オードブル、魚とすすんで、肉のころには残す。すると、「あら、あんた、要らないの。じゃ、あたしがもらうわ」って。ファッションの句も多かった。オシャレだった。食道楽、着道楽。老いて「いよよ華やぐ」という言葉どおりだった。無邪気、天真爛漫、お茶っぴい。
可久子は、母と、同志というか、友だちともちょっと違うし、そんな関係だった。わりと客観的に母を見ることができた。
真砂女の俳句は、女性がどこかで抱いたことのある感覚、「それ、私もある」と共感を呼ぶようなところがあって、もちろん俳句として格調も高いが、俗をいとわない、俗であることをうまく引き受けて、俗なところをしっかり持っている。それがまた、真砂女の句の不思議な魅力だ。【神野紗希】
真砂女は「私のは生活句ですから」って、よく言っていた。だから、身近なこと、思ったことをそのままに句にしていたのではないか。<人もわれもその夜さびしきビールかな>など。
「恋の軌跡をたどる旅」というNHKテレビの企画で、可久子は母と二人で長崎に出かけた(1995年)。三泊四日、寝起きを共にした。その時に初めて聞いたが、昭和13年に長崎に行った恋人の森さんを真砂女は追った。森さんは戦地に行ったので、真砂女は一人で東京へ帰った。関門海峡を船で渡った。だんだん九州の灯が遠ざかる。「あの時は怖いほどの寂しさだった。海に跳び込みたかったねえ」と言っていた。あの時の旅行で同じ女同士の思い、共通のものを感じることができた。自分勝手でわがままで、そのくせ内弁慶で泣き虫で、つくづく「可愛い女」だった。
<今生のいまが倖せ衣被>・・・・衣被はとても庶民的な食べ物。だからその程度なんだけれど、それが私の今の幸せだということ。「吉田屋」というあの大きな旅館の女将だった時の幸せと、今、「卯波」の女将で衣被のような庶民的な幸せと、その落差、というところか。
(4)芝居「真砂女」
大好評につき、再演。
●日時 2013年2月18日~27日
●場所 新国立劇場小劇場
●出演 藤真利子、本山可久子、谷昌樹、ほか
●その他 劇団朋友第43回公演
【注1】神野紗希・選「鈴木真砂女30句抄」(「俳句」2013年2月号)から抄出。
【注2】インタビュイー:本山可久子(女優、真砂女の子)、インタビュアー:神野紗希(俳人)「愛しの真砂女」(「俳句」2013年2月号)
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