経験というものは、体験ということとは全然ちがう、という意味のことを前に書いたが(注三)、その根本のところは、経験というものが、感想のようなものが集積して、ある何だか漠然とした判ったような感じが出て来るというようなことではなく、ある根本的な《発見》があって、それに伴って、ものを見る目そのものが変化し、また見たものの意味が全く新しくなり、全体のペルスペクティーブが明晰になってくることなのだ、と思う。したがってそれは、経験が深まるにつれて、あるいは進展するにつれて、その人の行動そのものの枢軸が変化する、ということをももちろん意味している。その場合大切なことが二つあって、一つは、この発見、あるいは視ることの深化更新が、あくまで内発的なものであって、自分というものを外から強制する性質のものではなく、むしろ逆にそこから自分というものが把握され、あるいは定義される、ということ、と同時に、それはあくまで自分でありながら、経験そのものは自分を含めた《もの》の本当の姿に一歩近づくということ、更に換言すれば、言葉の深い意味で《客観的》になることであると思う。文学者や芸術家の創作活動というものは、こういう意味の経験の極地である、と思うし、それはある動かすことのできない構造を持った認識であると言える。認識である、というのは、自分と《もの》との関連にほかならない経験の定着に、それはほかならないからである(注四)。しかし、それは経験とは、何か文芸的創造の素材のようなものだという意味では全然ない。むしろ創造は、経験そのものの、それに対する人間の責任の証印を帯びた端的な姿の一つにほかならないのである。また、これは、本当の経験というものが文芸にたずさわる人の専売であるという意味ではもとよりない。経験をもつということは、人間が人間であるための基本的条件であり、《一つの経験は一人の人間だ》、ということである。したがって、一つ一つの経験は互いに置き換えることのできない個性をもつと共に、人間社会におけるそれであるが故にそれが《客観的に》(この言葉は誤解を招きやすいが)純化されるに従って、相互に通い合う普遍性をもって来るのである。こういう抽象的な言い方はよくないのであり、正確には自分の言いたいところを表現してくれないが、今は、適切な言葉を欠くままに、こう言っておくのである。
(注三)拙文「霧の朝」参照。
(注四)私がここで述べていることは、神秘的直感というようなことではない。あくまで日常の経験そのものの構造の中に現れてくる否定することの出来ない事実を指しているのである。あることが《判った》という時、それを極限まで分析する時、もう分析することの出来ないある核、ここでいう全体のペルスペクティーブの変化、主体的には視ることの変化が対象の新鮮化と共に起こることは否定しえないのである。私は、そこに神秘的直感に通ずるあるものがある、と指摘されるならば、それを否定する意志はない。
□森有正『遙かなノートルダム』(講談社文芸文庫、2012.10)所収の「ひかりとノートルダム」から引用した。なお、《 》は引用に当たって挿入したもので、原文では《 》内の言葉に傍点がつく。
【参考】
「【森有正】の見た日本 ~社会構造がもたらす日本語の限界~」
「【森有正】アイデンティティと「経験」」
「【森有正】フランスの自然、日本の自然 ~サルトル~」
「【旅】フランス ~ノートル・ダム~」
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(注三)拙文「霧の朝」参照。
(注四)私がここで述べていることは、神秘的直感というようなことではない。あくまで日常の経験そのものの構造の中に現れてくる否定することの出来ない事実を指しているのである。あることが《判った》という時、それを極限まで分析する時、もう分析することの出来ないある核、ここでいう全体のペルスペクティーブの変化、主体的には視ることの変化が対象の新鮮化と共に起こることは否定しえないのである。私は、そこに神秘的直感に通ずるあるものがある、と指摘されるならば、それを否定する意志はない。
□森有正『遙かなノートルダム』(講談社文芸文庫、2012.10)所収の「ひかりとノートルダム」から引用した。なお、《 》は引用に当たって挿入したもので、原文では《 》内の言葉に傍点がつく。
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「【森有正】の見た日本 ~社会構造がもたらす日本語の限界~」
「【森有正】アイデンティティと「経験」」
「【森有正】フランスの自然、日本の自然 ~サルトル~」
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