ブログ「アリラン峠の石神」に「大岡昇平、そして父のこと」と題する記事、全10編【注1】が掲載されている。
「アリラン峠の石神」管理人がどういう方なのか、まったく知らないのだが、記事の内容からすると、1949年生まれの方で、御尊父は出征・抑留の経験があるらしい。以下、管理人とブログの記事との両方を一括して「アリラン峠」と略記させていただくが、「アリラン峠」は御尊父の半生【注2】を思い合わせながら、大岡昇平の戦前戦後をたどっている。例えば、帝国酸素。帝国酸素本社が入居していた「ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク(現・シティバンク)神戸支店」ビルは現存していて、「アリラン峠」の御尊父も復員直後このビルで働いたそうだ。【注1の(2)】
ここでは、大岡昇平に焦点をあてて整理する。
帝国酸素は、もとはフランスの「レール・リキード社」日本法人で、1930年、住友資本と共同出資により「帝国酸素」と社名変更した。
1938年10月、帝国酸素(日仏合弁)に入社(翻訳係)。
1939年10月、今日出海の媒酌で上村春枝と職場結婚。式は挙げていない。
1943年11月、それまでに帝国酸素を退社していた大岡、川崎重工業に入社。
1944年2月、川崎重工業東京事務所勤務。
1944年3月(35歳)、本籍地の東京で教育召集を受け、近衛連隊に入隊。
「教育召集」とは何か。これを「アリラン峠」は明快に解説している。
徴兵検査では、身体的な頑健さが主たる評価軸とされ、甲種、第一乙種、第二乙種、丙種、丁種、戊種に分けられた。検査の結果、合格となってただちに(検査の翌年1月)入営する可能性が高いのは、甲種合格者。「現役(兵)」の兵役期間はおよそ2年。平時ならば、期間終了後、除隊となる。戦時には、甲種合格者だけでは現役兵が不足する。第一乙種合格者は、現役兵が不足してくると「補充兵」として召集をかける第一候補となる。そのため、あらかじめ兵士としての教育をおこなっておく必要がある。これが「教育召集」だ。第二乙種合格者は、平時では召集がかかることはまずなかったらしいが、戦時になると、「第一乙種」に繰り上げられたり、「教育召集」がかかったりした。【注1の(3)】
大岡は、第二乙種合格だった。
1944年6月17日、部隊が品川駅で小休止中、前日の面会日に間に合わなかった妻子と面会。
1944年6月27日、門司にて輸送船に乗船。
輸送船の上で、大岡は次のように考えた。
①<「私はこの負け戦が貧しい日本の資本家の自暴自棄と、旧弊な軍人の虚栄心から始められたと思っていた。そのために私が犠牲になるのは馬鹿げていたが、非力な私が彼等を止めるため何もすることが出来なかった以上止むを得ない。>【(「出征」】
このような戦争観はマルクスから学んだことだ、という大岡の証言を「アリラン峠」は拾い出している。【注1の(6)】
②<あの時、ブラブラしていた時に、また本をごそっと読みました。(中略)神戸の場末の本屋にマルクスの『露土戦争』って本があったんだ。そんな本、当時本屋にあっちゃあいけないんだけれど、『戦争』って題なんでお目こぼしあずかったらしいんだ。(中略)で、それを読んで、あの中の戦争についての考え方が、まあぼくの戦争観の基礎になったんですがねぇ。>【『戦争』、岩波現代文庫】・・・・「ブラブラしていた時」とは、帝国酸素を辞めて失業中の1943年頃のことだ。
③<きみたちは死に、おれは生きた。おれたちは大抵三五歳で、自分の惨めさを忘れるために、みんな考え深かった。しかし自分の手に持たされた銃でなにをすべきかを決定する動機がどうも見付からなかった。それはわれわれが普段からどう生きるかについて、或る高い道義をもっていなかったからなのだ。>【『ミンドロ島ふたたび』】
④<私がここで戦友たちになにを約束したかは言いたくない。やるまではなにも言わないのが私の主義である。>【同】
大岡は何を「約束」したのか。「アリラン峠」は、仮説を立てている。【注1の(8)】
(a)抽象的な何か(<例>平和を守る)より、もっと具体的ななにか(行動)だった。
(b)まず、『レイテ戦記』をかれらのためにも書き上げること。『レイテ戦記』の「あとがき」【注3】からも、それが伺える。
(c)芸術院会員の辞退(1971年、ミンドロ島を訪問の4年後)。・・・・大岡自身による証言は【注4】。
高度成長が1954年12月から1973年11月までであるならば、(c)のときまだ高度成長の途上にあった。<健忘症に陥った「戦後」のなかで、大岡は、ふたたび孤独だった。/そして、ひとり死者たちを想起し対話を続けていた。/その相手は、「抽象」の死者ではない。/「伊藤、真藤、荒井、厨川、市木、平山、それからもう一人の伊藤」と、大岡は呼びかけるのだ。>と「アリラン峠」は記す。【注1の(8)】
「アリラン峠」はさらに、
⑤<私がいかにも自分が愚劣であることを痛感したが、これが理想をもたない私の生活の必然の結果であった以上、やむを得なかった。現在とても私が理想をもっていないのは同じである。ただこの愚劣は一個の生涯の中で繰り返され得ない、それは屈辱であると私は思う。>【「出征」】
を引用し、ここにおける「理想をもたない私の生活」は、③の「われわれが普段からどう生きるかについて、或る高い道義をもっていなかった」に対応すると見て、③は<じぶんたちは35歳の大人として世渡りの苦労もなめ思慮深かったものの、見方をかえれば、それは処世、自己保身に流されてきたということでもあり、その「必然の結果」として、じぶんたちはなすすべもなく無意味な戦争に駆り出されたのではなかったか、という痛恨の自己反省を言っているのではないか。/そして、その「愚劣は一個の生涯の中で繰り返され得ない」と、大岡は、戦友が眠る「ルタイ高地」に向って「叩頭」し、約束し、自戒したのではないか。>と解釈している。【注1の(8)】
そして、傍証として、
⑥<ぼくはそういう戦争になる経過を見てきた人間として、兵士として、戦争の経験をもつ人間として、戦争がいかに不幸なことであるかを、いつまでも語りたいと思っています。><権力はいつも忍び足でやってくるんです。>【『戦争』】
を引用する。【注1の(8)】
<戦争についてひと言も語らなかった父、というより、私に話を聴こうとする姿勢がなかったのだが、その亡き父に、私もなにか「約束すること」があるような気がしている。>【注1の(8)】という反省は重い。
1945年12月、復員船、博多港に到着。上陸。
「アリラン峠」は、「わが復員」(『ある補充兵の戦い』所収)の末尾の「とても好きな箇所」を引用し、擱筆している。【注1の(9)】
私も好きな箇所だ。以下は、引用符は付けないが、引用である。
畳の上に寝るのは一年半ぶりである。背中に当たるのと同じ柔らかい感触の平面が、まわりにもずっとあるという感じは、まったくいいものだ。
片づけをすませて上がって来た妻は、横になりながら、
「折角もう帰って来んと諦めてたのに」といった。
意味のないことをいいなさるな。久し振りで妻を抱くのは、何となく勝手が悪かった。
「もし帰って来なんだら、どないするつもりやった」
私は今でも妻と話すときは関西弁を使う。友と東京弁で語り、横を向いて妻を関西弁で呼ぶ芸当を、友は珍しがる。
「そりゃ、ひとりで子供育ててくつもりやったけど、一度だけ好きな人こしらえて、抱いて貰うつもりやった」
「危険思想やな」
我々は笑った。
【注1】
(1」)「大岡昇平、そして父のこと(1) はじめに」
(2)「大岡昇平、そして父のこと(2) 召集まで」
(3)「大岡昇平、そして父のこと(3) 教育召集」
(4)「大岡昇平、そして父のこと(4) 妻との面会」
(5)「大岡昇平、そして父のこと(5) 1937年「南京陥落」」
(6)「大岡昇平、そして父のこと(6)「スタンダール研究」」
(7)「大岡昇平、そして父のこと(7)「レイテ戦記」」
(8)「大岡昇平、そして父のこと(8)「ミンドロ島ふたたび」」
(9)「大岡昇平、そして父のこと(終り)」
(10)「大岡昇平、そして父のこと(番外編) ”戦争は知らない”」
【注2】1915年に生まれ(1909年生まれの大岡昇平より6歳ほど若い)。1939年4月、大学(経済学部)卒後、「K造船所」(神戸、同年12月に「K重工業」に社名変更)入社。1939年12月(24歳)、応召し、歩兵第40連隊(鳥取)に入営。新兵教育終了後、「陸軍経理学校」(旧「満州」の「新京」)に入校。主計幹部候補生の教育を受け、「中支野戦貨物廠」に配属(第13軍〈上海〉直轄)。1945年8月、敗戦により、中華民国(国民党)に抑留され、1946年8月(31歳)に帰還。1947年、「K重工業」に復帰。【注1の(1)】
【注3】<戦場の事実は兵士には偶然のように作用するが、その一部は敵味方の参謀の立てる作戦と司令部の決断によって、支配されているのである。レイテ島における決断、作戦、戦闘経過及びその結果のすべてを書くことが、著者の次の野心となった。>【『レイテ戦記』の「あとがき」】
【注4】
⑦<フィリピンで捕虜になったことが恥ずかしくて芸術院会員などという国家的栄誉はどうしても受けられません。とにかく天皇陛下の前には出られません。>【1971年11月30日付け「読売新聞」】
⑧<あの辞退のことばとは、あのときふっとその場でというのが朝日新聞に出たけれども、そうじゃないんだ。・・・・おれはもうずっと前から言っていたんだよ。そろそろくるころだと思って。>【『二つの同時代史』】
⑨<誰も僕の気持を察してくれない。/なさけない気持で、僕はやっぱり生きている。/わかって貰えるのは、みんなだけなんだ。>【『ミンドロ島ふたたび』】
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「アリラン峠の石神」管理人がどういう方なのか、まったく知らないのだが、記事の内容からすると、1949年生まれの方で、御尊父は出征・抑留の経験があるらしい。以下、管理人とブログの記事との両方を一括して「アリラン峠」と略記させていただくが、「アリラン峠」は御尊父の半生【注2】を思い合わせながら、大岡昇平の戦前戦後をたどっている。例えば、帝国酸素。帝国酸素本社が入居していた「ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク(現・シティバンク)神戸支店」ビルは現存していて、「アリラン峠」の御尊父も復員直後このビルで働いたそうだ。【注1の(2)】
ここでは、大岡昇平に焦点をあてて整理する。
帝国酸素は、もとはフランスの「レール・リキード社」日本法人で、1930年、住友資本と共同出資により「帝国酸素」と社名変更した。
1938年10月、帝国酸素(日仏合弁)に入社(翻訳係)。
1939年10月、今日出海の媒酌で上村春枝と職場結婚。式は挙げていない。
1943年11月、それまでに帝国酸素を退社していた大岡、川崎重工業に入社。
1944年2月、川崎重工業東京事務所勤務。
1944年3月(35歳)、本籍地の東京で教育召集を受け、近衛連隊に入隊。
「教育召集」とは何か。これを「アリラン峠」は明快に解説している。
徴兵検査では、身体的な頑健さが主たる評価軸とされ、甲種、第一乙種、第二乙種、丙種、丁種、戊種に分けられた。検査の結果、合格となってただちに(検査の翌年1月)入営する可能性が高いのは、甲種合格者。「現役(兵)」の兵役期間はおよそ2年。平時ならば、期間終了後、除隊となる。戦時には、甲種合格者だけでは現役兵が不足する。第一乙種合格者は、現役兵が不足してくると「補充兵」として召集をかける第一候補となる。そのため、あらかじめ兵士としての教育をおこなっておく必要がある。これが「教育召集」だ。第二乙種合格者は、平時では召集がかかることはまずなかったらしいが、戦時になると、「第一乙種」に繰り上げられたり、「教育召集」がかかったりした。【注1の(3)】
大岡は、第二乙種合格だった。
1944年6月17日、部隊が品川駅で小休止中、前日の面会日に間に合わなかった妻子と面会。
1944年6月27日、門司にて輸送船に乗船。
輸送船の上で、大岡は次のように考えた。
①<「私はこの負け戦が貧しい日本の資本家の自暴自棄と、旧弊な軍人の虚栄心から始められたと思っていた。そのために私が犠牲になるのは馬鹿げていたが、非力な私が彼等を止めるため何もすることが出来なかった以上止むを得ない。>【(「出征」】
このような戦争観はマルクスから学んだことだ、という大岡の証言を「アリラン峠」は拾い出している。【注1の(6)】
②<あの時、ブラブラしていた時に、また本をごそっと読みました。(中略)神戸の場末の本屋にマルクスの『露土戦争』って本があったんだ。そんな本、当時本屋にあっちゃあいけないんだけれど、『戦争』って題なんでお目こぼしあずかったらしいんだ。(中略)で、それを読んで、あの中の戦争についての考え方が、まあぼくの戦争観の基礎になったんですがねぇ。>【『戦争』、岩波現代文庫】・・・・「ブラブラしていた時」とは、帝国酸素を辞めて失業中の1943年頃のことだ。
③<きみたちは死に、おれは生きた。おれたちは大抵三五歳で、自分の惨めさを忘れるために、みんな考え深かった。しかし自分の手に持たされた銃でなにをすべきかを決定する動機がどうも見付からなかった。それはわれわれが普段からどう生きるかについて、或る高い道義をもっていなかったからなのだ。>【『ミンドロ島ふたたび』】
④<私がここで戦友たちになにを約束したかは言いたくない。やるまではなにも言わないのが私の主義である。>【同】
大岡は何を「約束」したのか。「アリラン峠」は、仮説を立てている。【注1の(8)】
(a)抽象的な何か(<例>平和を守る)より、もっと具体的ななにか(行動)だった。
(b)まず、『レイテ戦記』をかれらのためにも書き上げること。『レイテ戦記』の「あとがき」【注3】からも、それが伺える。
(c)芸術院会員の辞退(1971年、ミンドロ島を訪問の4年後)。・・・・大岡自身による証言は【注4】。
高度成長が1954年12月から1973年11月までであるならば、(c)のときまだ高度成長の途上にあった。<健忘症に陥った「戦後」のなかで、大岡は、ふたたび孤独だった。/そして、ひとり死者たちを想起し対話を続けていた。/その相手は、「抽象」の死者ではない。/「伊藤、真藤、荒井、厨川、市木、平山、それからもう一人の伊藤」と、大岡は呼びかけるのだ。>と「アリラン峠」は記す。【注1の(8)】
「アリラン峠」はさらに、
⑤<私がいかにも自分が愚劣であることを痛感したが、これが理想をもたない私の生活の必然の結果であった以上、やむを得なかった。現在とても私が理想をもっていないのは同じである。ただこの愚劣は一個の生涯の中で繰り返され得ない、それは屈辱であると私は思う。>【「出征」】
を引用し、ここにおける「理想をもたない私の生活」は、③の「われわれが普段からどう生きるかについて、或る高い道義をもっていなかった」に対応すると見て、③は<じぶんたちは35歳の大人として世渡りの苦労もなめ思慮深かったものの、見方をかえれば、それは処世、自己保身に流されてきたということでもあり、その「必然の結果」として、じぶんたちはなすすべもなく無意味な戦争に駆り出されたのではなかったか、という痛恨の自己反省を言っているのではないか。/そして、その「愚劣は一個の生涯の中で繰り返され得ない」と、大岡は、戦友が眠る「ルタイ高地」に向って「叩頭」し、約束し、自戒したのではないか。>と解釈している。【注1の(8)】
そして、傍証として、
⑥<ぼくはそういう戦争になる経過を見てきた人間として、兵士として、戦争の経験をもつ人間として、戦争がいかに不幸なことであるかを、いつまでも語りたいと思っています。><権力はいつも忍び足でやってくるんです。>【『戦争』】
を引用する。【注1の(8)】
<戦争についてひと言も語らなかった父、というより、私に話を聴こうとする姿勢がなかったのだが、その亡き父に、私もなにか「約束すること」があるような気がしている。>【注1の(8)】という反省は重い。
1945年12月、復員船、博多港に到着。上陸。
「アリラン峠」は、「わが復員」(『ある補充兵の戦い』所収)の末尾の「とても好きな箇所」を引用し、擱筆している。【注1の(9)】
私も好きな箇所だ。以下は、引用符は付けないが、引用である。
畳の上に寝るのは一年半ぶりである。背中に当たるのと同じ柔らかい感触の平面が、まわりにもずっとあるという感じは、まったくいいものだ。
片づけをすませて上がって来た妻は、横になりながら、
「折角もう帰って来んと諦めてたのに」といった。
意味のないことをいいなさるな。久し振りで妻を抱くのは、何となく勝手が悪かった。
「もし帰って来なんだら、どないするつもりやった」
私は今でも妻と話すときは関西弁を使う。友と東京弁で語り、横を向いて妻を関西弁で呼ぶ芸当を、友は珍しがる。
「そりゃ、ひとりで子供育ててくつもりやったけど、一度だけ好きな人こしらえて、抱いて貰うつもりやった」
「危険思想やな」
我々は笑った。
【注1】
(1」)「大岡昇平、そして父のこと(1) はじめに」
(2)「大岡昇平、そして父のこと(2) 召集まで」
(3)「大岡昇平、そして父のこと(3) 教育召集」
(4)「大岡昇平、そして父のこと(4) 妻との面会」
(5)「大岡昇平、そして父のこと(5) 1937年「南京陥落」」
(6)「大岡昇平、そして父のこと(6)「スタンダール研究」」
(7)「大岡昇平、そして父のこと(7)「レイテ戦記」」
(8)「大岡昇平、そして父のこと(8)「ミンドロ島ふたたび」」
(9)「大岡昇平、そして父のこと(終り)」
(10)「大岡昇平、そして父のこと(番外編) ”戦争は知らない”」
【注2】1915年に生まれ(1909年生まれの大岡昇平より6歳ほど若い)。1939年4月、大学(経済学部)卒後、「K造船所」(神戸、同年12月に「K重工業」に社名変更)入社。1939年12月(24歳)、応召し、歩兵第40連隊(鳥取)に入営。新兵教育終了後、「陸軍経理学校」(旧「満州」の「新京」)に入校。主計幹部候補生の教育を受け、「中支野戦貨物廠」に配属(第13軍〈上海〉直轄)。1945年8月、敗戦により、中華民国(国民党)に抑留され、1946年8月(31歳)に帰還。1947年、「K重工業」に復帰。【注1の(1)】
【注3】<戦場の事実は兵士には偶然のように作用するが、その一部は敵味方の参謀の立てる作戦と司令部の決断によって、支配されているのである。レイテ島における決断、作戦、戦闘経過及びその結果のすべてを書くことが、著者の次の野心となった。>【『レイテ戦記』の「あとがき」】
【注4】
⑦<フィリピンで捕虜になったことが恥ずかしくて芸術院会員などという国家的栄誉はどうしても受けられません。とにかく天皇陛下の前には出られません。>【1971年11月30日付け「読売新聞」】
⑧<あの辞退のことばとは、あのときふっとその場でというのが朝日新聞に出たけれども、そうじゃないんだ。・・・・おれはもうずっと前から言っていたんだよ。そろそろくるころだと思って。>【『二つの同時代史』】
⑨<誰も僕の気持を察してくれない。/なさけない気持で、僕はやっぱり生きている。/わかって貰えるのは、みんなだけなんだ。>【『ミンドロ島ふたたび』】
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