大岡昇平は『成城だより』で、推理小説は数学とならんで終生変わらぬ道楽だった、と語っている。道楽は半端ではなく、数学は晩年に専門家から講義を受けている。そして、推理小説は自らも書き、その1冊『事件』は1978年に日本推理作家協会賞を受賞した。
論理明晰な大岡は謎解きを好んだが、大岡ほど明晰でない作家は謎解きとは別の領域に活路を見出した。東直己の場合、それは「ごますり」だった。
『広辞苑(第五版)』は、<へつらって自分の利益を計ること。また、その人。>と定義する。当然、「ごますり」人間は、余人に好感を与えない。
しかし、本書の主人公ノリマ(法間)の「ごますり」を見ていると、それは確かにへつらっているし、自分の利益を計っているのだが、憎めない。なぜか。
それは、どこか、節度のようなものがあるからだ。あること、ないことをでっちあげ、やたらに媚びまくる、というわけではない。あくまで、現に在るものをあの手この手で持ち上げる。本人は意図しているが、ひとは気づかぬものをきちんと評価し、褒める。本人自身気づかぬ美点を見つけ出し、褒めまくる。要するに、けれんみがない。
だから、傍らで聞く者に(そして読者に)嫌な印象を与えない。せいぜい、大袈裟だ、と感じさせるぐらいだ。そして、饒舌は沈黙を破るから、コミュニケーションが円滑になる。
物事のいい面を徹底して数え上げるには、ふだんから雑学的知識をふんだんに仕入れておかねばならない。酒の種類、犬の品種から、ドレスやアロハシャツのメーカーまで。こまめな研究とよい記憶力が必要なのだ。
そして、本人にも周りにも不都合なことを徹底的に避けるには、それなりの才智が必要だ。人間関係や状況の把握に鈍感だと、まず「ごますり」はできない。
要するに、ノリマ(法間)は見かけほど馬鹿ではない。
馬鹿ではないどころか、抑制された「ごますり」によって中身の濃い対話を醸しだし、警察が見逃した真実を明らかにする場合もある(「時カクテル」)。
芸は身を助ける。殺される寸前、もやは本能となった「ごますり」のおかげで、危機を脱したりもする(「美しい目」)。
本書は、軽い娯楽小説として、際限のない「ごますり」と雑学によって読者を楽しませる。そして、さらに、コミュニケーションの根柢にあるべき「気配り」について、改めて考える機会を提供してくれる。
□東直己『探偵法間 ごますり事件簿』(光文社、2012.7)
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