(承前)
(6)自然は神がつくった秩序か
キリスト教の教えでは、すべての人が生きていく権利がある。しかし、地上の資源には限りがある。それをどう分配していくかが経済学のテーマだ。
<例>限りある資源をめぐり奪い合いの戦争が起こる。トマス・ホッブスのいわゆる自然状態だ。でも、それは決して好ましい状態でも最善の状態でもない。
キリスト教徒は、自然状態から出発して、どのように秩序を生み出すことができるか、その論理を突き詰めた。
まず、神がつくった秩序を人間が壊してはならない。
では、神がつくった秩序とは何か。
「創世記」の天地創造では、6日目までに天と地、海と陸地、天体、植物、水中の生き物と空を飛ぶ鳥、動物、人間を造った。7日目以降は、それが機械的に運動することになる。
そこには天体があり、山があり川があり、野原があった。動物も人間もいた。秩序とは自然環境だ。自然は神が造ったものだから、それ自体に価値があると考える。
神が造ったあらゆるもののなかで、人間だけに罪がある。それは、人間が自由意思を持ち、被造物のなかで一段高い場所に立ち、神と交流する存在だからだ。では人間も、自然の一部であるなら、自分を正当化していいのではないか。自分の罪を肯定してはいけないにせよ。
それが“right”・・・・権利だ。人間が生まれながらに持っている自然権だ。
人間は身体を神に手造りされ、命も与えられた。生きていってよい。身体も命も神の造った秩序だから、自然。自分に与えられた自然を正当化してよい。この正しさを権利という。
人間一人ひとりに平等に自然権が与えられているのであれば、均衡状態が生まれるはずだ。「あなたの権利はここまで」「私の権利はここから」というふうに、相手の権利を侵さないように自分の権利を確定する均衡。
ホッブスは均衡する前の状態を自然状態と呼んだ。均衡したあとの状態は社会状態だ。それが社会契約によって生まれるかどうかはさて措き、西洋文明はこの均衡を社会の秩序と考えるようになった。
かくして400年ほど前に自然法が見出された。国際法も国内法も自然の秩序をもとにした自然法によって基礎づけよう。自然法はすべてのキリスト教徒が従わなければならない規則だから、イスラム法シャリーアに匹敵する。
自然法ができたことでキリスト教徒の自己正当化の基準も明確になった。
逆に言えば、自然法に合致しているかぎり、神がつくった秩序に従っていることになる。自然法は神の秩序だから、最後の審判で有罪とされる根拠にはならない。これで信仰の立場からは安心できるようになった。
自然法とは、人間の理性に基づくルールだ。
自然法は、理性によって発見される、と定義されている。それなら理性とは何か。キリスト教の考えによれば、人間の理性は神の精神作用のコピーだ。人間それぞれに神の精神作用がコピーされ、神とは独立して動いている。
ならば理性を使い、自然を解明すれば、神の創造のわざを明らかにし、神に近づくことができる。
理性は人間というパソコンに神の精神作用という名のソフトウェアをダウンロードされたもの、と考えるとわかりやすい。しかも無料。人間は誰でも同一アプリを共有しているから、配給元のソフト会社がかりに倒産しても問題ない。人間の理性さえあれば、自然法の秩序(近代社会)は維持できる。
それは、神がいるかどうかと無関係にキリスト教の秩序は維持され、キリスト教自体も存続していくということだ。
神学的に言えば世俗化だ。
隣人愛では、自分と隣人の生命が保証された。自然法では、他者の自由や財産も侵害してはいけないし、経済の根本である個人の所有権が認められる。
経済の根本は、所有権の絶対、あと契約の絶対、利潤追求の正当化だ。
神学的には所有権を正当化する決まった答えはない。ただ、考えてみて出てくるのは、
<信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った>【使徒言行録2章44、45節】
信徒たちがすべての物を共有したとは、前提として信徒個人にも所有物があったわけだ。つまり当時も私有財産があったと読むことができる。
ただし、それを貯蓄することは奨励されていなかった。
<金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい>【マルコ福音書10章25節】
これは、「神も信じています。隣人も愛しています」という金持ちの青年に「財産をすべて寄付して私についてきなさい」とイエスが言うと、彼は悲しそうな顔をして帰っていった。そのときのイエスの言葉だ。
財産を持つことは、信仰の立場から見ると大きな問題だったのだ。
①<あなたがたは、神と富とに仕えることはできない>【マタイ福音書6章24節】
②<富は、天に積みなさい>【同6章20節】
天に宝を蓄えれば錆びつかないし、泥棒に盗まれることもない、と教えている。
実際に蓄財していると、教会がやってきて②を根拠に「おまえはそういう態度で金を貯め込んでいるのか。それはよくない」と寄付を迫る。こうして個人の経済余剰は教会が全部巻き上げていく。
その金が大理石の立派な教会に形を変える。
生産設備ではない教会の建物は、完全な消費(浪費)にあたる。
では、消費活動ばかりする社会はどうなるか。
貯蓄できずに経済余剰がすべて消費されるので、拡大再生産ができない。経済発展がまったく望めない社会だ。キリスト教世界はそういう状態で、祈りの生活を最優先し、1,000年以上を過ごしてきた。
それは過去の話ではなくて、カトリック文化圏と正教文化圏ではいまもその習慣は根強く残っている(プロテスタントでは、教会に貢献したかどうかは救済と結びつかない)。
だからカトリック文化圏と正教文化圏では貯金をする人が少ない。
それが、いま問題になっているギリシアの財政破綻につながる。ギリシアも正教だから。
貯蓄の習慣がないから、みんなに気前よくおごる。あとは、お祭りで一気に金を使う。中南米がそうだ。ブラジルは世界でもっともカトリックの人口が多い国だから、日常的に大変な消費をする。佐藤優の妹はブラジルに住んでいるが、消費感覚は完全にブラジル人だ。景気よく金を使っている。
その消費の仕方は、キリスト教徒ならではだ。所有に対する罪悪感があるから、所有した財産を手放さなければならないという強迫観念がついてまわるのだ。
□佐藤優『あぶない一神教』(小学館新書、2015)/共著:橋爪大三郎
↓クリック、プリーズ。↓
【参考】
●第3章 キリスト教の限界
「【佐藤優】イエス・キリストは「神の子」か ~ キリスト教の限界(1)~」
「【佐藤優】ユニテリアンとは何か ~ キリスト教の限界(2)~」
「【佐藤優】ハーバード大学にユニテリアンが多い理由 ~ キリスト教の限界(3)~」
「【佐藤優】サクラメントとは何か ~ キリスト教の限界(4)~」
「【佐藤優】何がキリスト教信仰を守るのか ~ キリスト教の限界(5)~」
「【佐藤優】第一次世界大戦という衝撃 ~ キリスト教の限界(6)~」
「【佐藤優】なぜバルトはナチズムに勝ったのか ~ キリスト教の限界(7)~」
「【佐藤優】皇国史観はバルト神学がモデル? ~ キリスト教の限界(8)~」
「【佐藤優】米国が選ぶのは実証主義か霊感説か ~ キリスト教の限界(9)~」
「【佐藤優】無関心の共存は可能か ~ キリスト教の限界(10)~」
●第4章 一神教と資本主義
「【佐藤優】資本主義は偶然生まれたのか ~一神教と資本主義(1)~」
「【佐藤優】なぜ人間の論理は発展したのか ~一神教と資本主義(2)~」
「【佐藤優】最後の審判を待つ人の心境はビジネスに近い ~一神教と資本主義(3)~」
「【佐藤優】15世紀の教会はまるで暴力団 ~一神教と資本主義(4)~」
「【佐藤優】隣人が攻撃されたら暴力は許されるのか ~一神教と資本主義(5)~」
「【佐藤優】自然は神がつくった秩序か ~一神教と資本主義(6)~」
「【佐藤優】働くことは罰なのか ~一神教と資本主義(7)~」
「【佐藤優】市場経済が成り立つ条件 ~一神教と資本主義(8)~」
「【佐藤優】神の「視えざる手」とは何か ~一神教と資本主義(9)~」
「【佐藤優】なぜイスラムは、経済がだめか ~一神教と資本主義(10)~」
(6)自然は神がつくった秩序か
キリスト教の教えでは、すべての人が生きていく権利がある。しかし、地上の資源には限りがある。それをどう分配していくかが経済学のテーマだ。
<例>限りある資源をめぐり奪い合いの戦争が起こる。トマス・ホッブスのいわゆる自然状態だ。でも、それは決して好ましい状態でも最善の状態でもない。
キリスト教徒は、自然状態から出発して、どのように秩序を生み出すことができるか、その論理を突き詰めた。
まず、神がつくった秩序を人間が壊してはならない。
では、神がつくった秩序とは何か。
「創世記」の天地創造では、6日目までに天と地、海と陸地、天体、植物、水中の生き物と空を飛ぶ鳥、動物、人間を造った。7日目以降は、それが機械的に運動することになる。
そこには天体があり、山があり川があり、野原があった。動物も人間もいた。秩序とは自然環境だ。自然は神が造ったものだから、それ自体に価値があると考える。
神が造ったあらゆるもののなかで、人間だけに罪がある。それは、人間が自由意思を持ち、被造物のなかで一段高い場所に立ち、神と交流する存在だからだ。では人間も、自然の一部であるなら、自分を正当化していいのではないか。自分の罪を肯定してはいけないにせよ。
それが“right”・・・・権利だ。人間が生まれながらに持っている自然権だ。
人間は身体を神に手造りされ、命も与えられた。生きていってよい。身体も命も神の造った秩序だから、自然。自分に与えられた自然を正当化してよい。この正しさを権利という。
人間一人ひとりに平等に自然権が与えられているのであれば、均衡状態が生まれるはずだ。「あなたの権利はここまで」「私の権利はここから」というふうに、相手の権利を侵さないように自分の権利を確定する均衡。
ホッブスは均衡する前の状態を自然状態と呼んだ。均衡したあとの状態は社会状態だ。それが社会契約によって生まれるかどうかはさて措き、西洋文明はこの均衡を社会の秩序と考えるようになった。
かくして400年ほど前に自然法が見出された。国際法も国内法も自然の秩序をもとにした自然法によって基礎づけよう。自然法はすべてのキリスト教徒が従わなければならない規則だから、イスラム法シャリーアに匹敵する。
自然法ができたことでキリスト教徒の自己正当化の基準も明確になった。
逆に言えば、自然法に合致しているかぎり、神がつくった秩序に従っていることになる。自然法は神の秩序だから、最後の審判で有罪とされる根拠にはならない。これで信仰の立場からは安心できるようになった。
自然法とは、人間の理性に基づくルールだ。
自然法は、理性によって発見される、と定義されている。それなら理性とは何か。キリスト教の考えによれば、人間の理性は神の精神作用のコピーだ。人間それぞれに神の精神作用がコピーされ、神とは独立して動いている。
ならば理性を使い、自然を解明すれば、神の創造のわざを明らかにし、神に近づくことができる。
理性は人間というパソコンに神の精神作用という名のソフトウェアをダウンロードされたもの、と考えるとわかりやすい。しかも無料。人間は誰でも同一アプリを共有しているから、配給元のソフト会社がかりに倒産しても問題ない。人間の理性さえあれば、自然法の秩序(近代社会)は維持できる。
それは、神がいるかどうかと無関係にキリスト教の秩序は維持され、キリスト教自体も存続していくということだ。
神学的に言えば世俗化だ。
隣人愛では、自分と隣人の生命が保証された。自然法では、他者の自由や財産も侵害してはいけないし、経済の根本である個人の所有権が認められる。
経済の根本は、所有権の絶対、あと契約の絶対、利潤追求の正当化だ。
神学的には所有権を正当化する決まった答えはない。ただ、考えてみて出てくるのは、
<信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った>【使徒言行録2章44、45節】
信徒たちがすべての物を共有したとは、前提として信徒個人にも所有物があったわけだ。つまり当時も私有財産があったと読むことができる。
ただし、それを貯蓄することは奨励されていなかった。
<金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい>【マルコ福音書10章25節】
これは、「神も信じています。隣人も愛しています」という金持ちの青年に「財産をすべて寄付して私についてきなさい」とイエスが言うと、彼は悲しそうな顔をして帰っていった。そのときのイエスの言葉だ。
財産を持つことは、信仰の立場から見ると大きな問題だったのだ。
①<あなたがたは、神と富とに仕えることはできない>【マタイ福音書6章24節】
②<富は、天に積みなさい>【同6章20節】
天に宝を蓄えれば錆びつかないし、泥棒に盗まれることもない、と教えている。
実際に蓄財していると、教会がやってきて②を根拠に「おまえはそういう態度で金を貯め込んでいるのか。それはよくない」と寄付を迫る。こうして個人の経済余剰は教会が全部巻き上げていく。
その金が大理石の立派な教会に形を変える。
生産設備ではない教会の建物は、完全な消費(浪費)にあたる。
では、消費活動ばかりする社会はどうなるか。
貯蓄できずに経済余剰がすべて消費されるので、拡大再生産ができない。経済発展がまったく望めない社会だ。キリスト教世界はそういう状態で、祈りの生活を最優先し、1,000年以上を過ごしてきた。
それは過去の話ではなくて、カトリック文化圏と正教文化圏ではいまもその習慣は根強く残っている(プロテスタントでは、教会に貢献したかどうかは救済と結びつかない)。
だからカトリック文化圏と正教文化圏では貯金をする人が少ない。
それが、いま問題になっているギリシアの財政破綻につながる。ギリシアも正教だから。
貯蓄の習慣がないから、みんなに気前よくおごる。あとは、お祭りで一気に金を使う。中南米がそうだ。ブラジルは世界でもっともカトリックの人口が多い国だから、日常的に大変な消費をする。佐藤優の妹はブラジルに住んでいるが、消費感覚は完全にブラジル人だ。景気よく金を使っている。
その消費の仕方は、キリスト教徒ならではだ。所有に対する罪悪感があるから、所有した財産を手放さなければならないという強迫観念がついてまわるのだ。
□佐藤優『あぶない一神教』(小学館新書、2015)/共著:橋爪大三郎
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【参考】
●第3章 キリスト教の限界
「【佐藤優】イエス・キリストは「神の子」か ~ キリスト教の限界(1)~」
「【佐藤優】ユニテリアンとは何か ~ キリスト教の限界(2)~」
「【佐藤優】ハーバード大学にユニテリアンが多い理由 ~ キリスト教の限界(3)~」
「【佐藤優】サクラメントとは何か ~ キリスト教の限界(4)~」
「【佐藤優】何がキリスト教信仰を守るのか ~ キリスト教の限界(5)~」
「【佐藤優】第一次世界大戦という衝撃 ~ キリスト教の限界(6)~」
「【佐藤優】なぜバルトはナチズムに勝ったのか ~ キリスト教の限界(7)~」
「【佐藤優】皇国史観はバルト神学がモデル? ~ キリスト教の限界(8)~」
「【佐藤優】米国が選ぶのは実証主義か霊感説か ~ キリスト教の限界(9)~」
「【佐藤優】無関心の共存は可能か ~ キリスト教の限界(10)~」
●第4章 一神教と資本主義
「【佐藤優】資本主義は偶然生まれたのか ~一神教と資本主義(1)~」
「【佐藤優】なぜ人間の論理は発展したのか ~一神教と資本主義(2)~」
「【佐藤優】最後の審判を待つ人の心境はビジネスに近い ~一神教と資本主義(3)~」
「【佐藤優】15世紀の教会はまるで暴力団 ~一神教と資本主義(4)~」
「【佐藤優】隣人が攻撃されたら暴力は許されるのか ~一神教と資本主義(5)~」
「【佐藤優】自然は神がつくった秩序か ~一神教と資本主義(6)~」
「【佐藤優】働くことは罰なのか ~一神教と資本主義(7)~」
「【佐藤優】市場経済が成り立つ条件 ~一神教と資本主義(8)~」
「【佐藤優】神の「視えざる手」とは何か ~一神教と資本主義(9)~」
「【佐藤優】なぜイスラムは、経済がだめか ~一神教と資本主義(10)~」