<佐藤/日本人は歴史認識の前提として明治、大正、昭和、平成という時代区分を自然に受け入れています。でも、天皇の代替わりごとに歴史を括るということは、世界の普遍的価値観からすると、極めて異質な分節化です。
いま最高指導者の代替わりで歴史を区切っているのは、日本以外ではカトリック教会やロシア正教会か、北朝鮮くらいでしょう。
片山/日本では天皇が崩御すると元号が変わる。一世一元ですね。明治からの新しい習慣と言えます。明治維新で西洋型の近代国家を急造しようとするとき、天皇しか日本国民をまとめるものがない。将軍が大名をまとめ、大名が民をまとめる。このシステムを壊して、身分制度もやめて、あとに残るのは国民意識が未成熟な民だけということになると、まとまりが作れない。
そこで将軍を任命していた天皇をたてて、あとは全部中抜きにして、天皇と民の二種類しかない国民国家をデザインした。あくまで建前ですが。とにかく日本人であればどこに住んでいても天皇を仰いで生きるのだと。そういう自覚を国民に徹底させるために元号の使用を徹底して、時間意識の面から天皇と共にあることの刷り込みを行おうとした。天皇の命とともに元号の年を重ねて生きるのですから、天皇が好きとか嫌いとかの個人的な次元に関係なく、天皇の国日本が内面化する。この維新政府の戦略はものの見事に当たったと言えるでしょう。
たとえば昭和という言葉に、特に昭和を過ごした人々は特別な思いを込めているのではないですか。戦争も高度成長も懐かしいテレビ番組も流行歌も家族の思い出さえ、昭和の一語にからめとられ、日本人でないと分からない歴史意識で理解されてしまう。
何しろ64年もありましたから、あまり広くて歴史を考えるときに適切とは言えないのですが、やはり昭和で通じてしまうでしょう。
というわけですから、平成という時代も今上天皇と関係づけられないわけにはゆかない。一般論としても、一般論を超えるレベルとしても、平成という元号は平成の今上天皇によって特徴づけられる時代と感じます。
今上天皇の思想と行動が時代の中身とリンクしてくることがあまりにも多い。とりあえずあたまの方だけに触れますと、今上天皇は92年に中国を初訪問し、その翌年には沖縄を訪れています。昭和天皇にとっては生々しすぎた中国と沖縄という戦後問題に向き合う実践の始まりです。平成は、昭和には露わにしないで済ませてきた戦後日本の歴史的課題が表立った時代と捉えられるでしょう。そこには昭和天皇の崩御も大きいと思います。さわりにくかったことにさわりやすくなったということですね。
また91年の雲仙普賢岳の噴火でも被災者をお見舞いした。天皇の公的行為はどこまで認められるか。憲法上の規定もなく曖昧ななか、今上天皇は、その公的行為を非常に大胆に拡大して運用してきました。
佐藤/今上天皇の個性や思想と結びつくからこそ、個性を離れたときにどうなるか考える必要があります。
片山/「ポスト平成」の問題ですね。天皇が崩御することなく退位すれば、近代の天皇制が想定してこなかった前天皇が生きて存在することになる。崩御と代替わりのセットで保たれてきた維新以来のシステムは根底から動揺します。この国の構造というか正当性についての価値観も、また大きく変わるでしょう。
佐藤/日本で生前退位の話題が出たとき、誰も天皇制を廃して共和制に移行すべきだという主張をしなかった。もしも60年代、70年代なら社会党左派や共産党の議員は、間違いなく共和制への移行を論点にしたはずです。でもこれだけ政治家や論客がいながら誰も共和制を口にしなかった。
片山/共和制だけでなく、あらゆるイデオロギーや主義や主張が議論されなくなってしまった。昭和から平成になり、イデオロギーは完全に忘れられてしまいましたね。>
□佐藤優/片山杜秀『平成史』(小学館、2018)の「第1章 バブル崩壊と55年体制の終焉/平成元年→6年(1989年-1994年)」の「天皇が中国と沖縄を訪ねた意味」から一部引用
【参考】
「【佐藤優】『平成史』概要」
いま最高指導者の代替わりで歴史を区切っているのは、日本以外ではカトリック教会やロシア正教会か、北朝鮮くらいでしょう。
片山/日本では天皇が崩御すると元号が変わる。一世一元ですね。明治からの新しい習慣と言えます。明治維新で西洋型の近代国家を急造しようとするとき、天皇しか日本国民をまとめるものがない。将軍が大名をまとめ、大名が民をまとめる。このシステムを壊して、身分制度もやめて、あとに残るのは国民意識が未成熟な民だけということになると、まとまりが作れない。
そこで将軍を任命していた天皇をたてて、あとは全部中抜きにして、天皇と民の二種類しかない国民国家をデザインした。あくまで建前ですが。とにかく日本人であればどこに住んでいても天皇を仰いで生きるのだと。そういう自覚を国民に徹底させるために元号の使用を徹底して、時間意識の面から天皇と共にあることの刷り込みを行おうとした。天皇の命とともに元号の年を重ねて生きるのですから、天皇が好きとか嫌いとかの個人的な次元に関係なく、天皇の国日本が内面化する。この維新政府の戦略はものの見事に当たったと言えるでしょう。
たとえば昭和という言葉に、特に昭和を過ごした人々は特別な思いを込めているのではないですか。戦争も高度成長も懐かしいテレビ番組も流行歌も家族の思い出さえ、昭和の一語にからめとられ、日本人でないと分からない歴史意識で理解されてしまう。
何しろ64年もありましたから、あまり広くて歴史を考えるときに適切とは言えないのですが、やはり昭和で通じてしまうでしょう。
というわけですから、平成という時代も今上天皇と関係づけられないわけにはゆかない。一般論としても、一般論を超えるレベルとしても、平成という元号は平成の今上天皇によって特徴づけられる時代と感じます。
今上天皇の思想と行動が時代の中身とリンクしてくることがあまりにも多い。とりあえずあたまの方だけに触れますと、今上天皇は92年に中国を初訪問し、その翌年には沖縄を訪れています。昭和天皇にとっては生々しすぎた中国と沖縄という戦後問題に向き合う実践の始まりです。平成は、昭和には露わにしないで済ませてきた戦後日本の歴史的課題が表立った時代と捉えられるでしょう。そこには昭和天皇の崩御も大きいと思います。さわりにくかったことにさわりやすくなったということですね。
また91年の雲仙普賢岳の噴火でも被災者をお見舞いした。天皇の公的行為はどこまで認められるか。憲法上の規定もなく曖昧ななか、今上天皇は、その公的行為を非常に大胆に拡大して運用してきました。
佐藤/今上天皇の個性や思想と結びつくからこそ、個性を離れたときにどうなるか考える必要があります。
片山/「ポスト平成」の問題ですね。天皇が崩御することなく退位すれば、近代の天皇制が想定してこなかった前天皇が生きて存在することになる。崩御と代替わりのセットで保たれてきた維新以来のシステムは根底から動揺します。この国の構造というか正当性についての価値観も、また大きく変わるでしょう。
佐藤/日本で生前退位の話題が出たとき、誰も天皇制を廃して共和制に移行すべきだという主張をしなかった。もしも60年代、70年代なら社会党左派や共産党の議員は、間違いなく共和制への移行を論点にしたはずです。でもこれだけ政治家や論客がいながら誰も共和制を口にしなかった。
片山/共和制だけでなく、あらゆるイデオロギーや主義や主張が議論されなくなってしまった。昭和から平成になり、イデオロギーは完全に忘れられてしまいましたね。>
□佐藤優/片山杜秀『平成史』(小学館、2018)の「第1章 バブル崩壊と55年体制の終焉/平成元年→6年(1989年-1994年)」の「天皇が中国と沖縄を訪ねた意味」から一部引用
【参考】
「【佐藤優】『平成史』概要」