<佐藤/政治の枠組みが大きく変わるきっかけになったのは92年です。東京佐川急便事件で自民党の金丸信が東京佐川急便から5億円のヤミ献金を受け取り、政治家や官僚の汚職や腐敗が社会問題になった。そのなかで実業家と右翼団体という暴力装置との絡み--つまり表の世界と闇の勢力の繋がりが明らかになりました。あれ以降、闇の勢力は表に出てこなくなった。
片山/東京佐川急便事件が引き金となり、翌年の93年に55年体制が崩壊します。社会に金権政治は許さないという空気が生まれた。
佐藤さんは、まだモスクワですよね。55年体制崩壊はどう受け止めましたか?
佐藤/率直に言ってショックを受けました。外務省では非自民8党派連立内閣の首相となった細川(護煕)よりも小沢一郎に期待感が強かったんです。小沢は『日本改造計画』において軍事を含めた国際貢献も含めて「普通の国になれ」と主張していましたから。
片山/最近「日本は、急に右傾化してきた」と言う人がいるけれど、集団的自衛権は、91年に始まった湾岸戦争時のPKO協力法から重要な論点でした。30年越しのモチーフだった。
佐藤/おっしゃるように「普通の国になれ」は、そのころから外務省の総意でしたね。
片山/当時、東京佐川急便事件の影響もあり、反金権政治が錦の御旗として掲げられていました。イデオロギーや思想は二の次で社会主義やマルクス主義の人も、自由市場的な考えの人も野合して、新たな勢力を作った。アメリカのような二大政党制にすれば、政権交代が頻繁に起きるようになって、政官財の癒着に歯止めがかかるはずだと。その方向への過渡期としての細川大連立内閣や自社さ連立内閣が演出されていった。
細川連立内閣の後を受けた羽田内閣が64日間で退陣し、自民党と日本社会党、新党さきがけが連立した村山連立内閣が成立したのは、94年6月でした。
佐藤/私は自社さ連立政権がなければ、96年の橋本内閣は絶対に生まれなかったと考えています。
当時、モスクワの日本大使館に政治学者の佐藤誠三郎が訪ねてきました。日本大使に「橋本龍太郎は首相になる可能性はありますか」と聞かれた佐藤誠三郎は「本人以外の全員が反対するでしょう」と応えた。
それほど橋本は政界で異質の存在だった。まず派閥の領袖ではなかった。それに政治家と一緒に飯を食わない。55年体制が続けば、大臣レベルで終わる政治家と誰もが見ていた。
しかし、自社さ連立政権で、彼にチャンスが転がり込んだ。伝統的な自民党の政治家なら、橋本内閣が行った予算の上限を定めるキャップ制導入や省庁の再編などの新自由主義的な改革は行わなかったはずです。
片山/橋本政権の新自由主義の流れは、その後の森政権にも小泉政権にも引き継がれます。ソ連崩壊で21世紀はアメリカの一人勝ちと当時は想定された。いま思えば極めて安直な「新しい常識」に支配されて政界もアメリカ型二大政党制に再編されるべきと大新聞も政治学者も煽り続けた。
とすれば、「政界再編過渡期内閣」としての自社さ連立政権は、冷戦構造崩壊後の判断ミスの時代が生み出したとも言えませんか。やはりソ連の崩壊がポイントです。
佐藤/私も同じ考えです。
ソ連の崩壊とともに重要になってくるのが、日本社会党の位置づけです。社会党と聞くと、土井たか子や辻元清美をイメージする人が多いのではないかと思います。でも実は、彼女たちは右翼社民で社会党のメインストリームじゃない。辻元はおそらくマルクスの『共産党宣言』を呼んだ経験はないと思います。
社会党のメインストリームは労農派マルクス主義者。特にマルクス・レーニン主義を指導原理とした社会主義協会に代表される左派です。ソ連崩壊で右翼社民が台頭して左派の力が失われていたから、自民党と社民党の連立が可能だったのです。>
□佐藤優/片山杜秀『平成史』(小学館、2018)の「第1章 バブル崩壊と55年体制の終焉/平成元年→6年(1989年-1994年)」の「右傾化の原点」を引用
【参考】
「【佐藤優】宮崎勤事件と仮想現実 ~平成史(5)~」
「【佐藤優】世界史と相対化させよ ~平成史(4)~」
「【佐藤優】バブル崩壊でファミレス進化 ~平成史(3)~」
「【佐藤優】モスクワから見た狂騒ニッポン ~平成史(2)~」
「【佐藤優】天皇が中国と沖縄を訪ねた意味 ~平成史(1)~」
「【佐藤優】『平成史』概要」
片山/東京佐川急便事件が引き金となり、翌年の93年に55年体制が崩壊します。社会に金権政治は許さないという空気が生まれた。
佐藤さんは、まだモスクワですよね。55年体制崩壊はどう受け止めましたか?
佐藤/率直に言ってショックを受けました。外務省では非自民8党派連立内閣の首相となった細川(護煕)よりも小沢一郎に期待感が強かったんです。小沢は『日本改造計画』において軍事を含めた国際貢献も含めて「普通の国になれ」と主張していましたから。
片山/最近「日本は、急に右傾化してきた」と言う人がいるけれど、集団的自衛権は、91年に始まった湾岸戦争時のPKO協力法から重要な論点でした。30年越しのモチーフだった。
佐藤/おっしゃるように「普通の国になれ」は、そのころから外務省の総意でしたね。
片山/当時、東京佐川急便事件の影響もあり、反金権政治が錦の御旗として掲げられていました。イデオロギーや思想は二の次で社会主義やマルクス主義の人も、自由市場的な考えの人も野合して、新たな勢力を作った。アメリカのような二大政党制にすれば、政権交代が頻繁に起きるようになって、政官財の癒着に歯止めがかかるはずだと。その方向への過渡期としての細川大連立内閣や自社さ連立内閣が演出されていった。
細川連立内閣の後を受けた羽田内閣が64日間で退陣し、自民党と日本社会党、新党さきがけが連立した村山連立内閣が成立したのは、94年6月でした。
佐藤/私は自社さ連立政権がなければ、96年の橋本内閣は絶対に生まれなかったと考えています。
当時、モスクワの日本大使館に政治学者の佐藤誠三郎が訪ねてきました。日本大使に「橋本龍太郎は首相になる可能性はありますか」と聞かれた佐藤誠三郎は「本人以外の全員が反対するでしょう」と応えた。
それほど橋本は政界で異質の存在だった。まず派閥の領袖ではなかった。それに政治家と一緒に飯を食わない。55年体制が続けば、大臣レベルで終わる政治家と誰もが見ていた。
しかし、自社さ連立政権で、彼にチャンスが転がり込んだ。伝統的な自民党の政治家なら、橋本内閣が行った予算の上限を定めるキャップ制導入や省庁の再編などの新自由主義的な改革は行わなかったはずです。
片山/橋本政権の新自由主義の流れは、その後の森政権にも小泉政権にも引き継がれます。ソ連崩壊で21世紀はアメリカの一人勝ちと当時は想定された。いま思えば極めて安直な「新しい常識」に支配されて政界もアメリカ型二大政党制に再編されるべきと大新聞も政治学者も煽り続けた。
とすれば、「政界再編過渡期内閣」としての自社さ連立政権は、冷戦構造崩壊後の判断ミスの時代が生み出したとも言えませんか。やはりソ連の崩壊がポイントです。
佐藤/私も同じ考えです。
ソ連の崩壊とともに重要になってくるのが、日本社会党の位置づけです。社会党と聞くと、土井たか子や辻元清美をイメージする人が多いのではないかと思います。でも実は、彼女たちは右翼社民で社会党のメインストリームじゃない。辻元はおそらくマルクスの『共産党宣言』を呼んだ経験はないと思います。
社会党のメインストリームは労農派マルクス主義者。特にマルクス・レーニン主義を指導原理とした社会主義協会に代表される左派です。ソ連崩壊で右翼社民が台頭して左派の力が失われていたから、自民党と社民党の連立が可能だったのです。>
□佐藤優/片山杜秀『平成史』(小学館、2018)の「第1章 バブル崩壊と55年体制の終焉/平成元年→6年(1989年-1994年)」の「右傾化の原点」を引用
【参考】
「【佐藤優】宮崎勤事件と仮想現実 ~平成史(5)~」
「【佐藤優】世界史と相対化させよ ~平成史(4)~」
「【佐藤優】バブル崩壊でファミレス進化 ~平成史(3)~」
「【佐藤優】モスクワから見た狂騒ニッポン ~平成史(2)~」
「【佐藤優】天皇が中国と沖縄を訪ねた意味 ~平成史(1)~」
「【佐藤優】『平成史』概要」