語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【井伏鱒二】音響の伝播について ~荻窪風土記~

2018年08月25日 | エッセイ
 音響は、地形や天候により微妙に違って伝播するらしい。井伏鱒二は悠然たる筆致で、大正期の時代性も併せて伝える。音響の伝播にも時代という環境条件が伴うのである。

---(引用開始)---
 音響といふものは、どんな伝播の仕方をするか、容易に我々の推測を許さない。音は種類によつて、一つ一つ別途な伝播の仕方をするかもしれぬ。昔の人の書いた記録によると、山伏の法螺貝の音は岡を通り越して岡の向側まで聞え、尼さんの団扇太鼓の音は岡で行きどまりになるさうだ。また一説に、山寺の釣鐘の音は、谷間伝ひではなくて尾根から尾根に伝はつて、山越えで峠まで聞えて行くと言はれてゐる。すると、法螺貝の音と釣鐘の音を混ぜ合せたやうな汽笛の音は、森や林を越えて街の上空を流れて来るかもしれぬ。障害物となるものは何であるか。
 「しかし弥次郎さん、物理学的に言つて、曇つた日や灰色の湿つぽい日は、遠方からの物音が、却つてよく伝はるといふことだね。関東大震災後、汽笛の音の伝播を阻害したのは何だらう」
 この質問に、弥次郎さんは言つた。
 「いや、品川の汽笛の音は、大震災後、晴雨にかかはらず聞えなくなつた。たしかにさうだ。府中の大明神様の大太鼓の音も、もとは祭の日に荻窪まで聞えたもんだ。大震災後、やがてこれも聞えなくなつた。この辺の澄んでた空気が、急にさうでもなくなつたといふことぢやないのかね」
 何かプラス・マイナスの関係で、汽笛の音を消すやうになつたのだ。
 大正十二年が関東大震災で、弥次郎さんは大正十三年に徴兵検査を受けた。そのころはもう汽笛の音が聞えなくなつてゐたが、府中大明神の大太鼓の音はまだ微かに聞え、お祭の当日は六の宮の御輿が出て、一番から六番までの大太鼓の音が聞えたさうだ。
 「ところが大震災後も、品川の汽笛は、鳴子坂あたりでならまだ聞えてゐた」と弥次郎さんが言つた。
 荻窪から京橋のヤッチャ場へ車を曳いて行く途中、たまたま鳴子坂の上に出ると早朝の汽笛の音を聞くことが出来たといふ。その後、また暫くすると、鳴子坂の上からも汽笛は聞えなくなつたさうだ。
---(引用終了)---

□井伏鱒二(『井伏鱒二自選全集 第12巻』(新潮社、1986)の「荻窪風土記--豊多摩郡井荻村」の「荻窪八丁通り」から一部引用

 
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【フェルメール】赤い帽子の娘 ~赤瀬川源平『フェルメールの眼』~

2018年08月25日 | □旅
 路上観察学を開拓した赤瀬川源平が、フェルメールの全作品36点の観察を集約したのが本書。たとえば、《赤い帽子の娘》についてこう書く。
 ちなみに、この作品は2018年のフェルメール展(8作品)の一つ。日本初公開。
---(引用開始)---
 何とも大胆な赤い横長の帽子。そして濡れた小さな赤い唇。その二つを結ぶ横長の逆三角形が、薄暗い画面の中でゆっくり右に傾いている。何ごともない穏やかな絵なのに、画家の描く冷徹な空気にひやりとする。
 *
 絵の全体を見ているときは、対象の描写があまりにも自然なのでわからない。でも近づいて見ると、すべてを細かく描き挙げているわけではなく、要点のハイライトだけを、じつに大胆な筆づかいで、あまりにあっさりと描いているのがわかる。フェルメールの透明感の秘密の第1点。
 *
■どきりとする自然さ
 自分にとって不可解であったフェルメールの絵の第一号。
 この絵の自然さにどきりとして、この自然の感触は何かと考えてしまった。
 どきりとするほどの自然さの、その原因の筆頭は光の状態である。頬から下に光が当たり、両眼と、それから顔面のほとんどの面積がうっすらとした陰の中にある。肖像ともなればもっと正面から光を当てるものだが、それをむしろ外している。そしてその人物が、いわゆる理想の美人ではないふつうの感じで、ふと口を半開きにしたままこちらを振り返っている。その唇や瞳が密かに光り、そんなさまざまな自然さが、狂いのない緻密さをもっって描かれている。
 と思うのに、よく見ると衣服の白い襟元や皺のところなど、筆のタッチが大きくて粗い。とりわけそう見えるのは被っている赤い帽子。あまりにも大雑把に赤く塗られているようで、昔の絵葉書などの人工着色みたいな感触である。いったいこれは何だろう。
 *
 まるでUFOのような存在の赤い帽子。ふんわりとした羽毛なのだろうが、古典的な絵の中でこれほどあっさりと色を塗られていると、こちらも落ち着いていられない。この巨大な落差の中に、フェルメールの永遠の新鮮さがセットされている。
---(引用終了)---

【資料】
 (1)フェルメール展・東京会場
  期間:2018年10月5日(金)~2019年2月3日(日)
  会場:上野の森美術館

 (2)展示作品
  1)牛乳を注ぐ女 1660年頃/アムステルダム国立美術館
  2)マルタとマリアの家のキリスト 1654-1656年頃/スコットランド・ナショナル・ギャラリー
  3)手紙を書く婦人と召使い 1670-1671年頃/アイルランド・ナショナル・ギャラリー
  4)ワイングラス 1661-1662年頃/ベルリン国立美術館【日本初公開】 
  5)手紙を書く女 1665年頃/ワシントン・ナショナル・ギャラリー
  6)赤い帽子の娘 1665-1666年頃/ワシントン・ナショナル・ギャラリー【日本初公開】※12/20まで
  7)リュートを調弦する女 1662-1663年頃/メトロポリタン美術館
  8)真珠の首飾りの女 1662-1665年頃/ベルリン国立美術館

□赤瀬川源平『[新装版]赤瀬川源平が読み解く全作品 フェルメールの眼』(講談社、2012)の「1 赤い帽子の娘」を引用

 【参考】
【フェルメール】の秘密情報 ~赤瀬川源平『フェルメールの眼』~
【フェルメール】《ぶどう酒のグラス(紳士とワインを飲む女)》 ~赤瀬川源平『フェルメールの眼』~
【フェルメール】《兵士と笑う娘》 ~赤瀬川源平『フェルメールの眼』~
【フェルメール】《牛乳を注ぐ女》 ~『20世紀最大の贋作事件』~
【フェルメール】の青はどこから来ているか? ~『フェルメール 光の王国』~

 
 《赤い帽子の娘》(1665-1666年頃)/ワシントン・ナショナル・ギャラリー
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