
埼玉県熊谷市西城(旧大里郡妻沼町)にある西城城跡(にしじょうじょうあと)を訪ねてきました。
城跡とは言っても、発掘調査ののち遺構は埋め戻されていますし、農地改良で区画された耕作地の中に石碑が建っているだけの
ものです。
土の城めぐりを始めた当初は、それなりの遺構がないと行く気がしなかったのですが、日が経つにつれて碑が建つだけの城跡も
夢があっていいなと思うようになり、いくつか碑だけの城跡を訪ねています。
え、分ってしまいましたか。「日が経つ」と「碑が建つ」をかけていることを。
西城と書いても「さいじょう」とは読まないようですから、秀樹感激!とはならなかったようです。(分る人には分る)
冗談はこのへんにして、城名が気になっています。「西城」という方もいれば「西城城」という方もおります。江戸城を例にと
った場合、江戸城の江戸にあたる部分は「西」なのか、それとも「西城」のどちらなのかということです。
文献を調べればその答えは出てくるかもしれませんが・・・碑にもヒントが隠されていましたので、後半で。

碑が建っている場所は萬有製薬の近くとのことから、萬有製薬を目標にして目指しました。萬有製薬あたりまで行けば直ぐに見
つかるだろうと高をくっていましたが見つからず、散歩中の方に教えていただき、遠回りしてしまいましたが何とか碑のある場
所に。

石碑が建つ場所は微高地になっています。碑を建てるために盛ったのかと推測します。

石碑の建つ場所は田んぼより一段高くなっています。これを見て土塁跡だったらと思いたくなる気持ちは分ります。でもここは
冒頭にも書いたよう発掘調査のあと、農地改良をしておりますので残念ながら土塁ではありません(私的解釈)

石碑の背面に「由来」として次のような碑文が刻まれています。
往古北東に福川南は入胎堀と長安寺沼が回る此の地は縄文より開けて長井庄の要衛となる 下り平安の初左近衛少将藤原義孝の
領となり五代の裔幡羅太郎道宗館を構え息式部大輔助高此処を本丸に長井城を築き東に砦を設け為里人之を東城と呼び本丸を西
城と称す本村地名の由来と請う 康平五年前九年の役で源頼義・義家父子に従い軍功を樹てた越前斉藤実遠が源家所有の長井庄
守護に任ぜられ長井斉藤の祖として赴任するに及び助高太田庄成田郷に居を移す 実遠の後嗣二代実直子無きにより越前河合の
同族実盛下向して別当を継ぐも首邑の地利を慮り館を西野郷に移す 以来八百有余年いま往時の集落跡に萬有製薬が建ちなお此
の辺一帯は土地改良を終え沃野に変貌した為区民相諮り本丸跡に碑を建て妻沼郷発祥の栄光を後世に伝える 因みに妻沼郷土か
るたに そよ風に稲穂がゆれる西城跡 とある
平成十年十二月吉日 西城区長 ・・・・
読解力に乏しい自身ではありますが、何とか多少は理解できました。
さて、冒頭で触れた城名ですが、石碑の表面には「西城本丸跡」とありますし、碑文にもに「西城」と称すの文言がありますの
で西城でよいのかなと思えます。また、地名は西城に由来するともあります。仮に西城という地名の場所が先にあって、そこに
城を建てたのならば、西城の城、すなわち西城城と普通はなるわけですが、この場合は地名が後ですから何とも言いようがあり
ません。
そんなことから、長井城や西城と言う方もいるわけですが、城址関係の本ですと「西城城」として解説されている方が多いよう
ですので本タイトルも「西城城」とさせていただきました。

折角ですから斜め後ろからの写真も・・・田んぼの向うに見えるのが萬有製薬の工場ですね。

すぐそばに猿田彦神社がありましたが、西城城とは関係ないですね。
散策日:平成29年(2017)11月19日(日)