深谷上杉氏 ①
必ずしも時系列通りにはいきませんが、深谷上杉氏に関連する場所を数回にわたって投稿予定です。
まずは深谷上杉氏の始まりの場所庁鼻和城を。

埼玉県深谷市国済寺にある庁鼻和城跡を訪ねてきました。現在、この地には庁鼻和上杉氏(深谷上杉氏)の菩提寺で臨済宗
南禅寺派の寺院である常興山国済寺が建立されており、境内には上杉憲英墓・上杉氏累代墓があります。
庁鼻和城跡は、埼玉県県選定重要遺跡(昭和44年(1969)10月1日選定)並びに、深谷市指定文化財(昭和34年(1959)11
月3日指定)となっています
庁鼻和城は、築城年代は定かではないが室町時代に、山内上杉憲顕が新田氏に備えて、憲顕の六男上杉憲英に武蔵国幡羅郡
庁鼻和(こばなわ)に築かせ城(館)で、庁鼻和上杉氏(深谷上杉氏)居城となり憲光、憲信と3代続きましたが、房憲の時
の康正2年(1456)深谷城に居城を移したことで廃城となりました。
深谷城には、房憲・憲清・憲賢・憲盛・氏憲の5代が居住したことから「深谷上杉氏」と呼ばれますが、庁鼻和上杉氏3代も
併せて「深谷上杉氏」と総称されます。
国済寺は、深谷上杉氏の祖である奥州管領上杉憲英が開基となり、峻翁令山禅師を招請して開山とし、上杉憲英の館であった
庁鼻和城南側に康応2年(1390)創建したといいます。

国道17号線沿いにある 上杉憲英墓・上杉氏累代墓 の標識 右の門が国済寺の黒門

国済寺表入り口 左の標柱には「史蹟 上杉憲英公墓」 右の標柱には「常興山國済禅寺」とあります。

国済寺黒門(深谷市指定文化財・昭和37年(1962)11月3日指定)

黒門の「興禅窟」とある扁額

「庁鼻和上杉氏※里之碑」とある石碑 上杉氏の事について細々と書かれているようですが全部読むのは難しいです。
※の部分は「裡」の変形文字のような感じがしますが、はっきりはしません?

国済寺鎮守社

国済寺三門(深谷市指定文化財・昭和46年(1971)11月3日指定)

三門を斜め後ろから

鐘楼

園通客

深谷新八景 庁鼻和城址と国済寺 の標識と 深谷上杉顕彰会による国済寺の説明板

国済寺の説明板
この説明板では「憲長」を3代目と数えていますが他の資料では「憲信」を3代目とするものもあります。(憲長と憲信は兄弟)
憲長を3代目に数えると、憲信が4代となり、4代とされる深谷初代城主の房憲は5代ということなります。

本堂

本堂 若干角度を変えて

本堂大棟にある上杉氏の家紋「竹に雀」

本堂に掲げられた扁額「禅林法窟」と出入り口の都にある家紋
禅林法窟 とは? 左の紋は何という紋でしょうか? 後で調べてみましょう(ただし、忘れるおそれ多大)

本堂の左脇を抜けて上杉氏の墓所へ その途中にある六地蔵と大棟の鬼瓦

大きですね。 下から見上げた時はこんなに大きいものとは思いもしません。

本堂裏手西側にある上杉憲英墓と上杉氏累代の墓

燈籠の家紋は当然ながら「竹に雀」

上杉憲英墓 1基(埼玉県指定旧跡・昭和10年(1935)3月31日指定)
上杉氏歴代墓14基(深谷市指定文化財・昭和37年(1962)11月3日指定)

正面中央が上杉憲英墓 手前両脇が累代の葉

こちらは家型の墓が多いです。

こちらは五輪塔・宝篋印塔が主体ですが、両脇何れも誰の墓かはわかりません。

深谷上杉氏祖の上杉憲英の墓は別格扱いのようです。

宝篋印塔の上杉憲英墓
法名は国済寺殿大宗常興大居士 寺号の国済寺 山号の常興山 はこの法名からきていますが、国済寺は憲英が生前に開基した
ということですから寺号・山号を法名にしたと考えられます。

本堂裏の土塁? 土塁とみるのはちょっと無理があるかもしれません。庭園の築山?(私見です)

同上

郭跡でしょうかかなりの広さがあります。

館跡北側の土塁 土塁というよりも館跡自体が周囲よりも一段高くなっているようです。

国済寺前から国道17号線を西方に400mほど行ったところにある 庁鼻和城跡北西隅外廓土塁
土塁と言っても遺構は全くありませんが深谷市指定文化財(昭和48年(1973)11月3日指定)となっています。

この通り国道に面しておりますので車では見落として通り過ぎてしまいますので、必死に歩いて探しました。

ここにも深谷上杉顕彰会の説明板が建っています。遺構がのこってなくともこうして説明板を設置してくれるお陰で史跡歩きが
できます。何も残っていないところに何もなければ史跡ということさえ分りませんから。

庁鼻和城跡物見櫓跡
やはり深谷市指定文化財(昭和48年(1973)11月3日指定)となっていますが、何もありません。

物見櫓跡と言うからには多少なりとも土塁様のものが残っているのかと付近を捜し歩きました。
こんなところと言っては失礼かもしれませんが、こんな場所に標柱と説明版が建っていました。結婚式場の建物の横です。

またまた深谷上杉顕彰会の説明板です。感謝感謝の連続です。
庁鼻和城跡(国済寺)は平成22年(2010)9月以来2度目の散策となりました。7年経ったからどこか変わったということでは
ありませんが、前回は散策範囲に入っていなかったところも加えて散策してみました。
散策日:平成29年(2017)12月11日(月)・14日(木)
必ずしも時系列通りにはいきませんが、深谷上杉氏に関連する場所を数回にわたって投稿予定です。
まずは深谷上杉氏の始まりの場所庁鼻和城を。

埼玉県深谷市国済寺にある庁鼻和城跡を訪ねてきました。現在、この地には庁鼻和上杉氏(深谷上杉氏)の菩提寺で臨済宗
南禅寺派の寺院である常興山国済寺が建立されており、境内には上杉憲英墓・上杉氏累代墓があります。
庁鼻和城跡は、埼玉県県選定重要遺跡(昭和44年(1969)10月1日選定)並びに、深谷市指定文化財(昭和34年(1959)11
月3日指定)となっています
庁鼻和城は、築城年代は定かではないが室町時代に、山内上杉憲顕が新田氏に備えて、憲顕の六男上杉憲英に武蔵国幡羅郡
庁鼻和(こばなわ)に築かせ城(館)で、庁鼻和上杉氏(深谷上杉氏)居城となり憲光、憲信と3代続きましたが、房憲の時
の康正2年(1456)深谷城に居城を移したことで廃城となりました。
深谷城には、房憲・憲清・憲賢・憲盛・氏憲の5代が居住したことから「深谷上杉氏」と呼ばれますが、庁鼻和上杉氏3代も
併せて「深谷上杉氏」と総称されます。
国済寺は、深谷上杉氏の祖である奥州管領上杉憲英が開基となり、峻翁令山禅師を招請して開山とし、上杉憲英の館であった
庁鼻和城南側に康応2年(1390)創建したといいます。

国道17号線沿いにある 上杉憲英墓・上杉氏累代墓 の標識 右の門が国済寺の黒門

国済寺表入り口 左の標柱には「史蹟 上杉憲英公墓」 右の標柱には「常興山國済禅寺」とあります。

国済寺黒門(深谷市指定文化財・昭和37年(1962)11月3日指定)

黒門の「興禅窟」とある扁額

「庁鼻和上杉氏※里之碑」とある石碑 上杉氏の事について細々と書かれているようですが全部読むのは難しいです。
※の部分は「裡」の変形文字のような感じがしますが、はっきりはしません?

国済寺鎮守社

国済寺三門(深谷市指定文化財・昭和46年(1971)11月3日指定)

三門を斜め後ろから

鐘楼

園通客

深谷新八景 庁鼻和城址と国済寺 の標識と 深谷上杉顕彰会による国済寺の説明板

国済寺の説明板
この説明板では「憲長」を3代目と数えていますが他の資料では「憲信」を3代目とするものもあります。(憲長と憲信は兄弟)
憲長を3代目に数えると、憲信が4代となり、4代とされる深谷初代城主の房憲は5代ということなります。

本堂

本堂 若干角度を変えて

本堂大棟にある上杉氏の家紋「竹に雀」

本堂に掲げられた扁額「禅林法窟」と出入り口の都にある家紋
禅林法窟 とは? 左の紋は何という紋でしょうか? 後で調べてみましょう(ただし、忘れるおそれ多大)

本堂の左脇を抜けて上杉氏の墓所へ その途中にある六地蔵と大棟の鬼瓦

大きですね。 下から見上げた時はこんなに大きいものとは思いもしません。

本堂裏手西側にある上杉憲英墓と上杉氏累代の墓

燈籠の家紋は当然ながら「竹に雀」

上杉憲英墓 1基(埼玉県指定旧跡・昭和10年(1935)3月31日指定)
上杉氏歴代墓14基(深谷市指定文化財・昭和37年(1962)11月3日指定)

正面中央が上杉憲英墓 手前両脇が累代の葉

こちらは家型の墓が多いです。

こちらは五輪塔・宝篋印塔が主体ですが、両脇何れも誰の墓かはわかりません。

深谷上杉氏祖の上杉憲英の墓は別格扱いのようです。

宝篋印塔の上杉憲英墓
法名は国済寺殿大宗常興大居士 寺号の国済寺 山号の常興山 はこの法名からきていますが、国済寺は憲英が生前に開基した
ということですから寺号・山号を法名にしたと考えられます。

本堂裏の土塁? 土塁とみるのはちょっと無理があるかもしれません。庭園の築山?(私見です)

同上

郭跡でしょうかかなりの広さがあります。

館跡北側の土塁 土塁というよりも館跡自体が周囲よりも一段高くなっているようです。

国済寺前から国道17号線を西方に400mほど行ったところにある 庁鼻和城跡北西隅外廓土塁
土塁と言っても遺構は全くありませんが深谷市指定文化財(昭和48年(1973)11月3日指定)となっています。

この通り国道に面しておりますので車では見落として通り過ぎてしまいますので、必死に歩いて探しました。

ここにも深谷上杉顕彰会の説明板が建っています。遺構がのこってなくともこうして説明板を設置してくれるお陰で史跡歩きが
できます。何も残っていないところに何もなければ史跡ということさえ分りませんから。

庁鼻和城跡物見櫓跡
やはり深谷市指定文化財(昭和48年(1973)11月3日指定)となっていますが、何もありません。

物見櫓跡と言うからには多少なりとも土塁様のものが残っているのかと付近を捜し歩きました。
こんなところと言っては失礼かもしれませんが、こんな場所に標柱と説明版が建っていました。結婚式場の建物の横です。

またまた深谷上杉顕彰会の説明板です。感謝感謝の連続です。
庁鼻和城跡(国済寺)は平成22年(2010)9月以来2度目の散策となりました。7年経ったからどこか変わったということでは
ありませんが、前回は散策範囲に入っていなかったところも加えて散策してみました。
散策日:平成29年(2017)12月11日(月)・14日(木)