四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

西城城(埼玉県熊谷市)

2017年12月21日 | 100名城以外の城館跡


埼玉県熊谷市西城(旧大里郡妻沼町)にある西城城跡(にしじょうじょうあと)を訪ねてきました。
城跡とは言っても、発掘調査ののち遺構は埋め戻されていますし、農地改良で区画された耕作地の中に石碑が建っているだけの
ものです。
土の城めぐりを始めた当初は、それなりの遺構がないと行く気がしなかったのですが、日が経つにつれて碑が建つだけの城跡も
夢があっていいなと思うようになり、いくつか碑だけの城跡を訪ねています。
え、分ってしまいましたか。「日が経つ」と「碑が建つ」をかけていることを。

西城と書いても「さいじょう」とは読まないようですから、秀樹感激!とはならなかったようです。(分る人には分る)
冗談はこのへんにして、城名が気になっています。「西城」という方もいれば「西城城」という方もおります。江戸城を例にと
った場合、江戸城の江戸にあたる部分は「西」なのか、それとも「西城」のどちらなのかということです。
文献を調べればその答えは出てくるかもしれませんが・・・碑にもヒントが隠されていましたので、後半で。




碑が建っている場所は萬有製薬の近くとのことから、萬有製薬を目標にして目指しました。萬有製薬あたりまで行けば直ぐに見
つかるだろうと高をくっていましたが見つからず、散歩中の方に教えていただき、遠回りしてしまいましたが何とか碑のある場
所に。




石碑が建つ場所は微高地になっています。碑を建てるために盛ったのかと推測します。




石碑の建つ場所は田んぼより一段高くなっています。これを見て土塁跡だったらと思いたくなる気持ちは分ります。でもここは
冒頭にも書いたよう発掘調査のあと、農地改良をしておりますので残念ながら土塁ではありません(私的解釈)




石碑の背面に「由来」として次のような碑文が刻まれています。

往古北東に福川南は入胎堀と長安寺沼が回る此の地は縄文より開けて長井庄の要衛となる 下り平安の初左近衛少将藤原義孝の
領となり五代の裔幡羅太郎道宗館を構え息式部大輔助高此処を本丸に長井城を築き東に砦を設け為里人之を東城と呼び本丸を西
城と称す本村地名の由来と請う 康平五年前九年の役で源頼義・義家父子に従い軍功を樹てた越前斉藤実遠が源家所有の長井庄
守護に任ぜられ長井斉藤の祖として赴任するに及び助高太田庄成田郷に居を移す 実遠の後嗣二代実直子無きにより越前河合の
同族実盛下向して別当を継ぐも首邑の地利を慮り館を西野郷に移す 以来八百有余年いま往時の集落跡に萬有製薬が建ちなお此
の辺一帯は土地改良を終え沃野に変貌した為区民相諮り本丸跡に碑を建て妻沼郷発祥の栄光を後世に伝える 因みに妻沼郷土か
るたに そよ風に稲穂がゆれる西城跡 とある
平成十年十二月吉日  西城区長 ・・・・

読解力に乏しい自身ではありますが、何とか多少は理解できました。
さて、冒頭で触れた城名ですが、石碑の表面には「西城本丸跡」とありますし、碑文にもに「西城」と称すの文言がありますの
で西城でよいのかなと思えます。また、地名は西城に由来するともあります。仮に西城という地名の場所が先にあって、そこに
城を建てたのならば、西城の城、すなわち西城城と普通はなるわけですが、この場合は地名が後ですから何とも言いようがあり
ません。

そんなことから、長井城や西城と言う方もいるわけですが、城址関係の本ですと「西城城」として解説されている方が多いよう
ですので本タイトルも「西城城」とさせていただきました。




折角ですから斜め後ろからの写真も・・・田んぼの向うに見えるのが萬有製薬の工場ですね。




すぐそばに猿田彦神社がありましたが、西城城とは関係ないですね。

散策日:平成29年(2017)11月19日(日)

安保氏館(埼玉県神川町)

2017年12月19日 | 100名城以外の城館跡


埼玉県児玉郡神川町元阿保地内の安保氏館跡(あぼしやかたあと)を訪ねてみました。
現地の説明板によれば武蔵七党のひとつ丹党に属する安保氏の館跡で、神川町指定史跡になっています。
埼玉県内では、菅谷館と並ぶ広大な館であったようです。しかしながら、遺構は残らず、館跡の一角に石碑と小さな祠、説明板
が建つのみです。この写真がその場所です。




嘉永元年(1848)に建てられたという「安保氏遺蹟之碑」




説明板




説明板の地図をアップにしてみました。地図を見ただけでは館跡の大きさの実感がありません。




この倉庫のある所も館跡の一部のようです。




道向かいにあるこの配送センターの倉庫も・・・




この空き地も・・・館跡の一部




館跡と称される場所を少し広めに撮ってみました。




安保氏により鎌倉期以降に祀られたと推測される安保神社

散策日:平成29年(2017)12月11日(月)

須賀谷原古戦場(埼玉県嵐山町)

2017年12月17日 | 古戦場・陣所


戦国時代の初めに「長享の乱(ちょうきょうのらん)」と呼ばれる関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による争い
がありました。その戦いの中のひとつに、長享2年(1488)6月18日の須賀谷原の戦いがあり、戦死者700余り、馬数百
がたおれた未曾有の激戦であったと記録されているようです。このとき、山内上杉方の軍勢は平沢寺(嵐山町平沢)に陣
を置いたとされます。一方の扇谷上杉氏の軍勢がどこに陣を置いたかははっきりとはしていないようです。
須賀谷原古戦場は推定の域を出ませんが、須賀谷原遺跡のある現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷あたりではないかと言われ
ます。
「長享の乱」の詳細については省かせていただきますが、「須賀谷原遺跡」については、埼玉県立嵐山史跡の博物館発行
の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」に次のようにあります須賀谷原古戦場。

国立女性教育会館の国道254号線バイパスを挟んだ北側にあります。平成12年に発掘調査され、鎌倉時代の道路跡ととも
に戦国時代の塚2基と50基の墓壙群が発見されています。出土した五輪塔、土器から15世紀後半から16世紀前半にか
けての遺跡であることがわかりました。土壙墓群の墓域であった所を一度片付けたうえで塚を構築し、塚の周りに新たに
墓を作っていました。遺跡の年代が長享2年(1488)の須賀谷原の合戦の時期と重なり、遺跡の位置からこの合戦との関
係が推測できる遺跡です。なお、遺跡は造成され消滅しましたが、出土した五輪塔が現在も遺跡内で覆屋に安置されてお
り、見ることができます。

そんな「須賀谷原古戦場」と推定される須賀谷原遺跡を訪ねてきました。

この写真のあたり一帯が須賀谷原古戦場推定地・須賀谷原遺跡と思われますが、宅地造成が進んでいます。




道路突き当りの所が最高地点で、この林の中に五輪塔を安置した覆屋があります。
このようにまだ造成されただけの場所が残っておりましたので何とか五輪塔を安置した覆屋の場所が分りましたが、住宅が
建ち並んでしまったら、おいそれとは見つけられなくなるでしょう。




覆屋のある高所から南方を見下ろしてみました。写真左側の住宅の先にある木立は国立女性教育会館。
右側の建物(菅谷中学校)の先に菅谷館跡(嵐山史跡の博物館)があります。




五輪塔を安置した覆屋




一応、丘の東側に階段が設けられています。




五輪塔




柵の上から撮ってみました。

長享の乱やこの須賀谷原の戦いについてはもう少し(もっと)勉強の必要がありますね。気持ちだけはあるのですが・・・

散策日:平成29年(2017)12月7日(木)

稲荷塚古墳(埼玉県嵐山町)

2017年12月16日 | 古墳


名 称:稲荷塚古墳(いなりづかこふん)
墳 形:円墳
築 造:7世紀後半(推定)
指 定:町指定史跡(昭和36年(1961)10月1日指定)
所在地:埼玉県嵐山町菅谷

嵐山町菅谷地内にある「稲荷塚古墳」を訪ねてみました。
位置的には、埼玉県立嵐山史跡の博物館と国道254号バイパスを挟んだ北側にあり、町立菅谷中学校の南側に当たります。
嵐山史跡の博物館の隣にある国立女性教育会館入り口前の信号のところをそのまま北に少し進んだ左側にあります。
以前は、嵐山町や吉見町の史跡等によく建っている横に大きな看板も庚申塔の前に建っていたようですが、いつの間にか
撤去されていました。
また、色褪せて読むのが困難であると不評であった平成2年に設置された説明板も、新しい現在のものになっています。
見た目も大きなものではありませんし、このように木が茂っていますと、説明板(案内板)でもない限りは古墳とは気づ
かないかもしれません。




現在の説明板には築造時期の記載はありませんが、以前の説明板には、「古墳時代後期(七世紀後半)の築造と推定され
る円墳である」旨が記載されていたようです。




この位置あたりから見れば古墳だと何とかわかりますが、予備知識がなかったり興味ない方はやはり古墳とは思いもしな
いでしょう。




左側が稲荷塚古墳 右側のフェンス内側が菅谷中学校のグラウンド
小路突き当りに国道254号バイパスが走り、その道向かいに嵐山史跡の博物館があります。




開口部は南側の民家と接する場所にあります。




開口部には扉が設けられて保護されています。




開口部と民家との間が狭いため相当な広角レンズを使わないと全体を撮ることは無理なようです。




鉄扉の格子の間から撮影に挑戦です。
側壁には同じくらいの厚さの薄い緑泥石片岩を小口積みに積み上げています。上からの圧力が水平にかかるように隙間なく、
様々な大きさ・厚さの石を丁寧に積み上げています




玄室までははっきりと撮ることはできませんでした。




稲荷塚古墳とは関係ないのですが、隣の菅谷中学校の校舎側面にある校章。五三の桐紋がベースになっていますね。
直ぐ近くにある「菅谷館」は、畠山重忠の館跡と言われています。畠山氏の家紋は小紋村濃(こもんむらご)ですが、
桐紋も畠山氏の家紋です。
そんな菅谷館跡のそばにあることから五三の桐紋を校章にしたのかと推測します。

散策日:平成29年(2017)12月7日(木)

歴史講座「武蔵の鎌倉御家人」第4回

2017年12月15日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催
平成29年度歴史講座「武蔵の鎌倉御家人」4(最終回)
① 講演:「後家尼」の力      酒井 紀美 氏(元茨城大学教育学部特任教授)
② 講談:「比企尼-涙の名月-」 神田 山吹 氏(講談師・日本講談協会理事) 
日時:12月15日(金)13:45~16:45
会場:国立女性教育会館 講堂

を受講してきました。

【内容】源頼朝の乳母として有名な比企尼(ひきのあま)をテーマとして、中世社会における女性の役割や実像を
研究者の講演と女流講談師が語る新作講談により、当時の女性の生き方について。
  
本年10月末から11月初めにかけて、埼玉県比企地域にある比企氏・比企尼に関係するといわれる場所を数か所訪ね
歩いたばかりですので、非常に興味ある題材でしたし大変勉強にもなりました。




今回の講座資料  A3判5枚10ページ




前回訪れたときは紅葉の盛りであった国立女性会館施設内茶室付近は椿の赤いはなが咲いていました。

聴講日:平成29年(2017)12月15日(金)

須賀広陣屋(埼玉県熊谷市)

2017年12月14日 | 100名城以外の城館跡


城 名:須賀広陣屋(すがひろじんや)
別 名:田村陣屋
形 態:陣屋
城 主:田村茂兵衛重次
時 期:江戸時代初期
遺 構:水堀・空堀
指 定:-
所在地:埼玉県熊谷市須賀広108(旧大里郡江南町)

須賀広陣屋は、江戸時代初期、男衾郡須賀廣村を治めた旗本・稲垣若狭守重太が、家臣の田村茂兵衛重次を代官として
派遣して構えさせた陣屋とのこと。元禄11年(1698)稲垣氏の近江山上への転封により陣屋も廃された。
付近には、陣屋前・沼田の小字があり、陣屋敷地内の屋敷部分は字重殿、東には通称オクラシがある。
「重殿」とは、若狭守の通称重太、代官田村茂兵衛重次の何れかに起因するものかとも思われます。

ということで今回は須賀広陣屋跡を訪ねてみました。




須賀広陣屋があったとされる場所(林付近)を北側道路から。この畑も陣屋敷地であったようです。




陣屋屋敷があったと思われるところの東側にある「重殿稲荷神社」の北側は、現在「重殿ふれあい広場」という小公園
になっており、東屋も設けられています。




重殿ふれあい広場前から北側を見ています(2枚目の写真と逆方向になります)




重殿ふれあい広場前から東側を見ています。右側に家が映っていますが、そのあたりが「通称オクラシ」のようです。




重殿ふれあい広場前から西側を見ています。中央の白い建物が江南南小学校です。




重殿ふれあい広場の西側です。平地と繁みの境を水堀が東西に走っていますが、だいぶ浅くなっています。水路か?




上の写真の逆方向です。




ふれあい広場東側の道路沿いにある重殿稲荷神社の鳥居




鳥居右側(北側)にある土塁ようのもの




重殿稲荷神社社殿




社殿東側にある池(堀)  石垣は後世のもの




池(堀)を別角度から




社殿北側の堀




重殿稲荷の敷地西側のフェンスの向こうに社殿北側の堀とつながる堀があります




社殿北側の堀とつながる堀
堀は下りきったところで西側に延びて民家の裏の方に  更に一方は南側の池に流れ込んでいます




民家裏手の方に延びている堀




重殿稲荷の南側にある池




重殿稲荷の南側にある池を南側から  池というよりも農業の灌漑用沼ですが。
この池の西側に民家がありますが(あえて写真の中に入れませんでした)その民家のあたりに陣屋屋敷があったようです。
陣屋敷地はこれよりももっと広範囲に及ぶようですが、散策範囲はこの程度で満足としておきましょう

今回も何を書いているのかぐちゃぐちゃになってしまいましたが・・・(いつものこと)

散策日:平成29年(2017)11月19日(日)

竜谷山城 ②(埼玉県毛呂山町)

2017年12月13日 | 100名城以外の城館跡


竜谷山城攻城記その②です。
この写真は、本郭(仮称)です。この後もほぼ同じ写真が出てきますが、これは表紙代わりですから。




二の郭(仮称・社務所や神楽殿のある所)東側にある参道の石段
半分ほど登ったところで二の鳥居があります。




二の郭よりは数メートルは高いようです。
この斜面を切り崩して削平して設けたのが二の郭であることはだれが見ても分ります。




雷電神社




同じく雷電神社を少し角度を変えて  本郭部でも一段高い場所にあります




雷電神社扁額




雷電神社社殿の背後に土塁があります。実際には土塁というよりも削平時の削り残しでしょう。




積んだというよりもやはり削り残しですね。




雷電神社右手にある稲荷神社




扁額の文字は「正一位稲荷大明神」でよいでしょうか? ちょっと自信がありません。




雷電神社・稲荷神社の右方(北側)が本郭のようです。
雷電神社の建つ場所を本郭と捉え、ここを二の郭と捉えている方もおるようですが、あくまで自身の便宜上の仮称ですから。




かなりの広さがある本郭跡です。




本郭の東端から毛呂山町の市街地がよく見えます。右手に見える森が流鏑馬の行われる出雲伊波比神社のある臥龍山
これだけの眺望であれば攻めてくる敵の動きもよくわかります。ましてや、これほどの家があったわけではありませんので。
この本郭東側の下の方にも小さな郭がいくつかあるようですが確認はしませんでした。




本郭東端から神社方向を




雷電神社のある場所の南側は削平されて一段低くなっています。四の郭とでも仮称しておきましょうか。




参道の階段を下りてきて二の郭の下まで戻ってきました。
帯郭?腰郭?か分りませんが、この道の左側に竪堀が落ちているようなのですが・・・




このあたりかと思いますが草で分りません。




先ほどの郭跡? を逆方向から




再び振り向き西方に向って下っていきます。二の郭西側下に空堀(横堀)跡がはっきりと




ほぼ下まで下りたところに郭があります  ここが参拝者(含む登城者)用の駐車場のようです。
ここまで車で来ていたら、悪い足を引き摺りながら、参道までのあの坂と石段を登ってこないで済んだのにと・・・




駐車場用にと手入れがされているとは思いますが、ここも広いです。
郭名は「西の郭」としておきましょう。




写真中央から斜め左下に走る道が駐車場への出入口用の道路のようです。




その先にゴルフコースが見えます。




下まで降りてみました。すぐ後ろはゴルフコースです。
雷電神社方向に向けた標識が立っていますから、駐車場へはここからで間違いないようです。

このままゴルフ場内の町道を堂々と歩いてゲートのところまで戻ってもよかったのですが、ゴルフクラブも持たない
爺が一人で歩いていると不審者に見られそうで(どう見ても不審者)、来た道を戻って自慢の高級車(自身にとって
はですから誤解のないよう)を駐車してある雷電神社入口の看板まで。

なお、文中の方位説明はあくまで目安ですので正確ではありません。

攻城日:平成29年(2017)11月9日(木)

竜谷山城(埼玉県毛呂山町)

2017年12月12日 | 100名城以外の城館跡


城 名:竜谷山城(りょうがいやまじょう)
別 名:要害山城
形 態:山城
時 期:室町時代か
遺 構:郭・土塁・空堀
指 定:県選定重要遺跡 (昭和51年(1976)10月1日選定)
所在地:埼玉県入間郡毛呂山町阿諏訪1561-2ほか

竜谷山城の歴史は明らかではありません。伝承によると阿弥和巳之助の居城ではないかと伝えられていますが、毛呂
氏の根城だったのではなかったと言われます。大永4年(1524)に上杉憲房が毛呂氏を攻めていますが、そのとき攻
めたのは毛呂氏館ではなく、この城であったともされ、毛呂氏の詰め城として機能していたようです。

城跡・雷電神社は、鶴ヶ島鶴ヶ島ゴルフ倶楽部(現在はオリムピックナショナルゴルフクラブWEST)内にありますが、
ゴルフ場内を町道が走っていますので、攻城・参拝には問題ありません。

冒頭写真は、ゴルフ場内の町道から撮った竜ケ谷山。




登城口は、埼玉医科大学の裏手にあたる阿諏訪地内の道路沿いにある「雷電神社」入り口の看板がある場所。
本来は雷電神社参拝用の道路入口であるようで、竜谷山城の名はどこにもありません。
城攻めをするには、ここに駐車して徒歩で行くか、このまま狭い道を車で雷電神社の駐車場まで行ってしまうかの
二通りがあるようですが、たいていの方は車で駐車場まで行ってしまうようです。




諸般の事情から無理ができませんので、自身も車でと考えたました。しかし、この狭い道を見たら対向車等があった
場合大変なことになると不安になり、徒歩での攻城に挑戦。




少し歩いたところで二又になります。両端に雷電神社と稲荷神社の石標が建っている右の道を登っていきます。




噂に聞きし(見た)看板  城攻めで神社にも参拝するわけですから通行に問題なし。しかもここは町道ですし。




しっかりと町道であることが併記された標識も建っています。




暫くはこんな道が続きます。これなら車の方がよかったと悔やんでも遅かったようです。




そして、これまた城好きな方の間では有名なゲートが見えてきました。
やっとの思いで坂道を上ってきましたがここがゴールではありません。新たなスタート地点です。




施錠はされていませんので自分で開けて自分で閉めて・・・閉め忘れをしないこと




トンネルを抜けるとそこは雪国だった。とは川端康成の「雪国」
ここの場合は、ゲートを入るとそこはゴルフ場だった。来る前から分ってはいましたが。
町道はゴルフ場に入っても続いています。




車両は直進、歩行者は右折して再び坂道を。
正直なところ、駐車場はゲートを入ったすぐのところにあるとばかり思っていましたから、この時はまだ、車の場合は
更に直進するということは知りませんでした




それほど急な坂道ではありませんが長いとさすがにきついです。神社への参道のようです。




こんな感じで坂道が続きます。




この景色はやはり阿諏訪地内かと思いますが、随分、高い所まで登ってきたのが分ります。




続いては石段の坂道を2か所ほど




この石段を登り切れば・・・




先のほうに鳥居が見えます。ここは参道になっているようですが、かつての郭跡
人によって郭名称(〇郭の数字)の呼び方がが違うようですので、ここは「三の郭」と仮称しておきます。




鳥居の先に見えるのが社務所のある二の郭(仮称)のようです。




更に近づきました。右上に見えるのが社務所  左に見えるのが帯郭?単なる道か?




石段から上がって来た参道(三の郭)を振り返って見ますと広く長いことが分ります。




再び二の郭(仮称)のほうに目をやりますと、虎口(?)の手前に犬走りのような跡が見られます。




二の郭(仮称)跡  左に神楽殿 右に社務所




二の郭奥から東方を見ています。左側に階段の一部が見えますが、本郭への階段です。

長くなりますので、続きの本郭以降は「竜谷山城(②」として投稿します。

攻城日:平成29年(2017)11月9日(木)

若宮八幡古墳(埼玉県東松山市)

2017年12月11日 | 古墳


『若宮八幡古墳』
下唐子古墳群中の塚原支群の主墳として位置づけられている円墳です。直径34メートル、高さは4.5メートルあり、
墳頂には八幡神社が建てられています。

主体部は、胴張りを有する石室で砂質凝灰岩、凝灰岩による切石切組積みで構築され、羨道部、前室部、玄室から
なる複室構造を持つ横穴式石室で、全長8.8メートル、玄室長4.28メートル、前室長2.55メートル、羨道長1.97
メートルです。周溝については部分的に確認できるだけで、現在のところ把握できていません。

この石室は江戸時代中期には開口されていたらしく、新編武蔵風土記に記載があります。石室内からの遺物は確認
されていませんが、平成22・23年度の修復保存整備に伴う調査で、前室部から小札、鉄器、須恵器片等が確認され
ました。また周溝を推察される個所より人物埴輪片、、器材埴輪片、円筒埴輪片が出土しており、古墳の築造年代
は6世紀後半と考えられています。

この古墳を中心に下唐子古墳群が形成されていましたが、大部分が壊されてしまい、林の中に数基を残すのみです。

所在地:埼玉県東松山市石橋2240-1
指 定:県指定文化財-史跡(昭和39年(1964)3月27日指定)
                           (東松山市HP 「東松山市の指定文化財」から引用)




若宮八幡古墳入口・八幡神社参道入口
県道344号(高坂上唐子線)と交差する水道庁舎入口交差点からひとつ南中学校よりの交差点そばにあります。
参道は長く二の鳥居まで150mほどあります。車両では途中行き止まりになりますので、水道庁舎入口交差点を嵐山町
方向に少し行ったところにある細い道路(ちょっと見落としやすい)から入ると二の鳥居前に行きます。




一の鳥居から二の鳥居の前まで来たところ。




上で説明の道路を入って来るとここに来ます。




八幡神社




まずは社殿まで行きお詣りを




八幡神社由緒書の案内板の左側から若宮八幡古墳の開口場所へ




「県指定史跡 若宮八幡古墳」の標柱が建っています




開口部は南西方向を向いています




西方から見てみました




「若宮八幡古墳」の説明板
最近はこうした金属製の説明板が増えてきています。見た目も綺麗だし、劣化の心配も少ないようですが、写真に
撮ると影が写ったり、太陽光で反射してしまったりなどと不都合です。木の板に書かれたものですとそうした心配
はないかわり、年月が経過すると文字が薄くなってきたり、板が朽ちて来たりしますので、どちらがよいのやら
(あくまで独り言の余談ですが)
無理すれば読めそうですが、一応・・・




説明文の部分




図の部分




写真の部分




開口部には格子扉があり施錠されています。中を覗いても真っ暗です。




でも、すぐそばに石室の中を照らす電灯のスイッチがありましたので・・・




奥は深いようですが、外から見るとこの程度です。




古墳斜面を北西から




こちらは北東から

散策日:平成29年(2017)11月8日(水)

熊井城(埼玉県鳩山町)

2017年12月10日 | 100名城以外の城館跡


城 名:熊井城
別 名:城添遺跡・内藤氏陣屋
形 態:館
時 期:不明
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡鳩山町熊井・妙光寺

時代が異なる館跡と陣屋跡があると言われる鳩山町の妙光寺を訪ねてみました。
妙光寺は、県道41号(東松山越生線)を鳩山駐在所方向から越生町大谷方向に行く途中の右側にあります。




本堂




本堂前に建立されている縁起の石碑

真言宗智山派 熊井山 妙光寺
ご縁起
当山は鎌倉中期の文永元年(1264)に根来寺(和歌山)の大伝法院で真言密教を修めた名僧竺翁が、開かれたお寺で
あります。地方の有力な郷士熊井氏の強い懇願によるもので、一時は熊井氏をはじめとする地元の有力な氏族の菩提寺
として、大いに繁栄しました。
平成10年には、当山は「城添遺跡」として、鳩山町教育委員会によって本格的な発掘調査が行われました。その結果、
熊井城跡と称される館跡(年代は不明)と土塁の一部や、また江戸時代の領主であった内藤氏が延宝7年(1679)に築
いた陣屋跡などが発見されました。
また遺物も百余基にわたる板碑(板石塔婆)や日本六古窯の一つ常滑焼き(愛知県知多半島)の蔵骨器など多数発見さ
れ、当時の繁栄ぶりを物語っています。
本尊の大日火炎不動明王は千百年を経た由緒正しき仏で・・・(以下略)
平成18年9月 住職 坂入弘恵

とあります。
熊井氏とは熊井太郎忠基のことで、ここ熊井城に居城し、源義経に仕え、壇ノ浦の合戦にも参加したという人物のよう
です。
また、内藤氏とは内藤式部少輔正次のことのようです。




上記縁起の石碑の碑文では、遺構がどこにあったのかの記述はありませんが、複数の方のWeb記事では、裏山の中に
熊井城跡の回字形の遺構、空堀が、熊井城の東側の多段が陣屋跡らしいとありました。




確かに多段になっていますが、果たして陣屋時代のものなのか、後世、何かの目的で造成したものなのか?




陣屋跡の段丘と思えば思えないこともないですが・・・




山の中までは入りませんでしたが、堀跡のようなものが見えますが、違うでしょう。




こちらは西側にある多段
明らかに何らかの目的をもって近年造成されたものでしょう。




このすぐ下は墓地とハーブ園(?)ですから・・・




正面は越生町方面です。
かつて、この前の道(県道41号)は越生街道と呼ばれ主要な街道であったようです。

まあ、何が何だかわからないままに訪ねてみただけですので。

散策日:平成29年(2017)10月31日(火)