四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

岩松尚純夫妻の墓(群馬県太田市)

2019年01月05日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:岩松尚純夫妻の墓
指 定:市指定史跡(平成3年(1991)4月25日指定・合併に伴い同17年(2005)3月28日、改めて新市の文化財として指定)
所在地:群馬県太田市岩松町(旧新田郡尾島町) 尚純萩公園内

 岩松尚純(いわまつひさずみ)は、2代金山城主で、後に下克上により家宰(かさい)の横瀬氏(よこぜし)に退けられ、
岩松に閑居し、静喜庵(じょうきあん)と号し、その生涯を連歌の道に生きた人物です。夫人の秋吟尼は、佐野氏(栃木県佐
野市)の出身で夫とともに岩松に移り住みました。
 岩松尚純とその夫人の秋吟尼の墓(五輪塔)は、青蓮寺の200m東にある尚純萩公園の中、約4m四方の方形の盛土上にあり
ます。              《太田市ホームページ 太田市の文化財『岩松尚純夫妻の墓』から一部抜粋引用》




公園内です。ここには写っていませんが四阿もあります。




公園内に設置されている「岩松尚純夫妻の墓」説明板




約4m四方の方形の盛土上にある岩松尚純夫妻の墓(五輪塔)




「新田治部大輔源尚純朝臣夫妻墓」と刻まれている石標




五輪塔は石標の左側に並んでいます




北側から




右側の五輪塔が尚純の墓で、空・水輪部分が欠損しています。
左側の五輪塔が尚純の夫人、秋吟尼の墓で、空輪の部分がありません。

 


上記写真の反対方向から




青蓮寺に伝来する岩松尚純自画像と「風待たで露におられよ萩の花」の歌が刻まれている歌碑
尚純萩公園の「萩」はこの歌に由来するのでしょうか




尚純が詠んだ歌碑
「奈天徒具寸袖可 岩本乃朝霞 郭公月耳以左 与不雲間哉 風未多天露丹 於良連与萩可花」
(なでつくすそでか いわほのあさかすみ ほととぎすつきにいざ よふくもまかな かぜまたでつゆに おられよはぎがはな)
と読むようです




〔尾島かるた〕 れ 連歌の尚純 萩公園




公園そばに自然石の大きな石碑がありました




日差しの加減ではっきりは読めませんが、「岩松山旧跡」ときざまれているようです。




尚純萩公園はこうした場所にあります  左側の小さな森が義国神社ですが直接は繋がっていません。

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

新田義興の墓・威光寺(群馬県太田市)

2019年01月03日 | 神社仏閣


名 称:新田義興公の墓
所在地:群馬県太田市由良町(旧太田市)威光寺

新田義貞の次男で南北朝時代の武将である新田義興の墓があるという威光寺を訪ねてみました。

観応の擾乱が起こると、鎌倉の奪還を目指して上野国で北条時行らとともに挙兵する。正平一統が破綻すると、1352年(正平
7年/観応3年)に宗良親王を奉じて弟義宗、従兄弟脇屋義治と挙兵し(武蔵野合戦)、鎌倉を一時占拠するが、尊氏の反撃にあ
って鎌倉を追われる。
尊氏が没した半年後の1358年(正平13年/延文3年)、義興は尊氏が亡くなったことを時期到来とばかりに鎌倉奪還のため挙兵、
鎌倉をめざした。これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清は、竹沢右京亮と江戸遠江守にこの迎撃を
命じた。はじめ竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙ったが果せず、江戸遠江守とその甥
江戸下野守の協力を求め、江戸遠江守は甥の下野守とともに三百余騎を率い、『太平記』によると一族の蒲田忠武も首謀者の
ひとりとして参加していたとされる。10月10日(11月11日)、義興と主従13人は、多摩川の矢口の渡しで謀殺された。享年28。
                               (『ウィキペディア』新田義興 から一部抜粋引)

新田義興を謀殺した一人の竹沢右京亮は児玉党に属した者で、武蔵国竹沢郷(現在の埼玉県比企郡小川町竹沢地区)を領した
ことから竹沢氏を名乗った。竹沢氏の館跡とされる場所が旧竹沢村靱負にある雲龍寺あたりと推定されております(余計な話
でした)




参道入口に建つ「正英山威光寺」の寺号標と「新田義興公菩提寺」の石標




威光寺山門




山門脇に建てられている「太平記の里 案内図」




案内図の中に威光寺の由緒が書かれています
”威光寺は、元徳2年(1330)6月1日、新田義興公の開基”とありますが、義興の生誕は元徳3年(1331)ということになっ
ています。
ということは、義興は生まれる前にお寺を開いたということになり、おかしな話になってしまいます。言われている生誕日が
間違っているのか?
それにしても、このことに気付いた人はさすがです。私なら決して気付くことはなかったでしょう。




威光寺境内




水場と層搭




小さな丘の上の八幡社と庭園




不動堂




大師堂




本堂




本堂に架かる山号「正英山」の扁額




威光寺本堂落慶記念碑
ここにも”当山は元徳2年(西暦1330)新田義貞公の次男新田義興公の開基にして”とあります




本堂裏手(西北)の小高い丘にある墓所




中央の宝篋印塔が新田義興の墓のようです
建っている位置と卒塔婆から、これだろうと判断できますが、説明板とまではいかなくもせめて立て札くらいはほしいですね。




新田義興の墓

参拝日:平成30年(2018)10月6日(土)