江戸時代の寺子屋では、
子どもたちが学習・・学ぶ(語源は真似る)、習う・・を行っていました。
それに比べ、現代は、文科省による教育システム(教え育てる)
プログラムの中で生きています。
大人が決めた「教える、育てる」内容をある意味押し付けられていて、
自主的に学ぶ、とか習うという場はとても少ないと思います。
そして、今の学校教育制度の中では、大学まで含めて
教師は「教える」ことはしていても、
生徒が「学ぶ」ことのお手伝いはしていないと思います。
つまり、生徒が学び、身に付けることが目的となっていないため、
生徒がわかろうがわかるまいが、「教える」ことを
ただ一方的に行っても良いわけです。
だからレクチャー教師が多いのでしょうね。
時間割に添って、レクチャーをやり続ければ仕事としてはOKなのですから。
本来の義務教育とは、親が子どもたちの学ぶ権利を奪ってはいけない!
親は、「子どもに学ばせる義務」をおっているわけです。
それでいて、子どもたちの「学ぶ権利」はどこに行っちゃったのでしょうね?
先日、ノーベル賞を受賞された方々も仰っていましたが、
子どもの頃に「理科が面白い!」と思ったのがきっかけだったそうです。
子どもたちに理科や算数や国語など、何でも良いですが
「面白い!」「もっと知りたい!」という
気持ちを持たせることから始めなければいけないと思います。
面白い!もっと知りたい!と思った子どもたちは、
親が勉強しなくてもいい!と言っても、
自ら学ぶに違いありません。
それは、「勉強」ではなく、「自分が興味のあること」だからです。
親や教師の役割は、いかに子どもたちの興味や自主性に火を付けるか?
かも知れませんね♪
私が先生だったら・・・
社会の歴史は、ジャニーズのタレント主演の時代劇ドラマの
DVDを作成して、タレントへの興味から、その役に興味をもってもらおうと
思います。
算数なら、問題を解く、答えをだす喜びを味わってもらうことに専念するし、
国語なら、いろんな漢字を競争して覚えてもらうとか、
ゲーム性を持ち入りながら、チームワークを築きつつ、
学習させようと思うなぁ~♪
もちろん、理科はでんじろう先生のように、
理屈ではなく、実験を楽しんでもらって、興味を持ってもらう!!
そんな授業なら、私自身もまた受けたいと思います。o(^-^)o
子どもたちが学習・・学ぶ(語源は真似る)、習う・・を行っていました。
それに比べ、現代は、文科省による教育システム(教え育てる)
プログラムの中で生きています。
大人が決めた「教える、育てる」内容をある意味押し付けられていて、
自主的に学ぶ、とか習うという場はとても少ないと思います。
そして、今の学校教育制度の中では、大学まで含めて
教師は「教える」ことはしていても、
生徒が「学ぶ」ことのお手伝いはしていないと思います。
つまり、生徒が学び、身に付けることが目的となっていないため、
生徒がわかろうがわかるまいが、「教える」ことを
ただ一方的に行っても良いわけです。
だからレクチャー教師が多いのでしょうね。
時間割に添って、レクチャーをやり続ければ仕事としてはOKなのですから。
本来の義務教育とは、親が子どもたちの学ぶ権利を奪ってはいけない!
親は、「子どもに学ばせる義務」をおっているわけです。
それでいて、子どもたちの「学ぶ権利」はどこに行っちゃったのでしょうね?
先日、ノーベル賞を受賞された方々も仰っていましたが、
子どもの頃に「理科が面白い!」と思ったのがきっかけだったそうです。
子どもたちに理科や算数や国語など、何でも良いですが
「面白い!」「もっと知りたい!」という
気持ちを持たせることから始めなければいけないと思います。
面白い!もっと知りたい!と思った子どもたちは、
親が勉強しなくてもいい!と言っても、
自ら学ぶに違いありません。
それは、「勉強」ではなく、「自分が興味のあること」だからです。
親や教師の役割は、いかに子どもたちの興味や自主性に火を付けるか?
かも知れませんね♪
私が先生だったら・・・
社会の歴史は、ジャニーズのタレント主演の時代劇ドラマの
DVDを作成して、タレントへの興味から、その役に興味をもってもらおうと
思います。
算数なら、問題を解く、答えをだす喜びを味わってもらうことに専念するし、
国語なら、いろんな漢字を競争して覚えてもらうとか、
ゲーム性を持ち入りながら、チームワークを築きつつ、
学習させようと思うなぁ~♪
もちろん、理科はでんじろう先生のように、
理屈ではなく、実験を楽しんでもらって、興味を持ってもらう!!
そんな授業なら、私自身もまた受けたいと思います。o(^-^)o