12月の一般質問「もっと文化を!埋蔵文化財保護行政と歴史文化基本構想」(要約:文責とだ)*つづき
少し長いです。毎回、時間が足りない!という思いでいますが「NHKの朝ドラ」は15分、フィギュアスケートのフリー演技は数分であれだけのことが表現できるのだ、と自分に言い聞かせています(余談です)。
越谷遺跡とJR島本駅西のまちづくり
越谷遺跡が非常に重要です。2017年の夏、岬状の州浜の痕跡と思われる地形から、御所ヶ池の南が池であった可能性が高いと水無瀬殿研究の第一人者からご指摘いただきました。
真っ先に浮かんだのは、なぜか宇治の平等院の鳳凰堂の苑池、もともとは藤原道長の別荘「宇治殿」でした。後鳥羽上皇をこよなく尊敬していた後水尾天皇の修学院離宮の周辺地形との類似性にも気づきました。
南山城の浄瑠璃寺の池と本堂の姿(宇治の平等院に似ているが規模が小さい)などを思うと、桜井に同様の浄瑠璃世界が描かれていた可能性は十分にあると思います。
問:戸田
JR島本駅まちづくり委員会において参考人・前川氏は、池の汀と思われるとして、当該箇所、岬状の地形の保存を主張されていた。最低限、再度の調査による記録保存を求めておられたと思う。どのようなご発言があったか。
答:都市創造部長
第4回JR島本駅西地区まちづくり委員会(2020年11月17日)、参考人から、名神高速道路拡幅時の調査の際、御所ヶ池で発見された汀を例にあげられ、岬状の地形の保全を主張されていたものと認識する。
また、岬状の地形の詳細がはっきりしない状況において工事を実施するのであれば、発掘調査を実施のうえ記録として残す必要性を主張されていたものと認識する。
御所内、御所池、六条殿、薬師堂の庭、御堂前などの字名があることから、桜井の重要性は久しく研究者から指摘されていました。
昭和34年夏、7月から9月にかけて名神高速道路沿線史跡調査の一環として、奈良国立文化財研究所員が中心となり、広瀬・桜井地内にある水無瀬離宮跡と伝桜井御所跡の実測調査が行われています。←府教委の依頼による
ただ、この段階では後鳥羽上皇や鎌倉時代に関連づけるまでには至っていません。古記録が正確さを欠くきらいはあるとしたうえで、桜井は桓武天皇王子円満院法親王の桜井御所跡と伝えている(地元の伝承)とされていました。
このとき調査を担当された森蘊(おさむ) 氏(日本庭園史学の基礎を築かれた)は、執筆された『遺跡庭園の調査 水無瀬離宮跡並びに伝桜井御所跡の調査』(奈良文化財研究所)を次のように締めくくられています。
「いずれも類例の稀である平安・鎌倉時代宮園遺跡として、文化史上最も重要なものであることが確実となった上は地下遺構の記録保存することのできるよう、今後、工事現場との連絡を緊密にされたいものです。」
日本庭園史学の第一人者・森蘊 氏のご指摘から半世紀を経た今、記録保存の蓄積に加えて、文献、地形的観点からの研究がようやく充実してきました。だからこそ、今、地形を壊すことはなんとしても避けたいのです。
森先生が実践されたという徹底的な文献資料の分析や、測量図と発掘調査との照合が必要で、島本町の場合、考古学に偏り過ぎていると、とだは思います。
問:戸田
改めて、越谷遺跡における岬状の州浜と思われる地形の保存協議を、土地区画整理組合、業務代行者・株式会社フジタと行っていただきたいと思うが、いかがか。今のままでは地区道路が敷設され、岬状の形状が壊されてしまう。その損失は計り知れない。
答:都市創造部長教育委員会
平成29年度に実施した土地区画整理事業に伴う試掘調査で遺構等の存在の確認ができなかったため、現時点では発掘調査の予定はないが、工事中に重要な遺構・遺物の存在を確認した場合は発掘調査を実施する予定としている。
なお、今回の尾山遺跡で見つかった池泉跡は、後鳥羽上皇配流後に造営されたものである可能性が高まっており、水無瀬離宮に関連する州浜の存在を裏付けるものではない、と聞き及んでいる。
そのため、町教育委員会の見解に沿って対応してまいりたいと考えているが、組合との設計協議等に際しては、まちづくり委員会でいただいたご意見等についてもお伝えするなど、可能な範囲で協議を行ってまいりたい。
後鳥羽上皇の隠岐配流後、この島本町がどのようであったかという意味で、日本史上、非常に重要な資料になると思います。
森氏の提言を踏まえて、文献資料の収集・保存・活用をもって継続的な研究を半世紀にわたり行っていたならば、桓武天皇王子円満院法親王の桜井御所跡という伝承とは異なる見解が得られていたかも知れません。
場合によっては、町営鶴ヶ池住宅跡地を売却する前に西浦門前遺跡の重要性が推測できていたかも知れず、島本町の歴史・文化・景観、まちづくりも、今とは違ったものになっていたとわたしには思えてなりません。
いずれにしても、水無瀬殿研究者が、膨大な資料、地形、浄土思想、風水学などから、桜井が水無瀬殿を構成する重要な地域であったという論理的推測にたどり着かれた課程において、岬状の州浜が果たした役割は極めて重要なものでした。
問:戸田
このたびの尾山遺跡池泉跡等の発見により、鎌倉時代、貴族の暮らしが当該地に及んでいたことは明らかである。桜井の重要性、州浜の存在の意義、桜井における水無瀬殿研究の信憑性は格段に高まったと言えるのではないか
答:教育こども部長
尾山遺跡で見つかった池泉跡等は、現地説明会後も調査を進め、現状では後鳥羽上皇配流後の13世紀中葉以降に造営された遺構である可能性が高まっている。
後鳥羽上皇が関与していなくとも、非常に精緻に造られており、相当の有力者の関与が窺える遺構で、当時においても桜井地区が重要な地域であったことが窺える。
西浦門前遺跡で水無瀬離宮跡に関連する庭園跡が見つかっていることから、水無瀬離宮跡の範囲が桜井地区まで拡がっていたことは明らだが、尾山遺跡周辺や御所ヶ池周辺まで拡がっていたということを明らかにする資料は、現在のところ今回の尾山遺跡の発掘調査では見つかっていない。
越谷遺跡内に存在する岬状の農地が水無瀬離宮跡に関連する州浜であることを裏付ける資料も見つかっていない。
だからこそ今後の研究を待ちたい。島本町史、日本史研究として、後鳥羽上皇配流後の当該地のあり方を調査することが町教委の役割ではないでしょうか。
問:戸田
さて、当該地はヒメボタル(陸生・森のホタルとも呼ばれる)の生息地。と同時に、宅地造成工事規制区域でもある。農住ゾーンの農の部分を活かし、越谷池からの水路を利用してビオトープ的な緑地あるいは農地とし、歴史的景観の一部として保存・活用するという選択を切望する。考えられる課題は。
答:都市創造部長
農住ゾーンは、民有地となる部分と、公共用地の緑地や道路等となる部分で構成されている。当該の州浜とされる部分について、仮に公共用地の緑地として町に移管される場合、設備の管理コストの課題などもあるが、ご指摘のような協議は一定可能であるものと認識する。現時点においても水を補充しない中でヒメホタルが生息している。
しかしながら、事業実現性を考慮し道路の敷設や換地設計等を行われるため、当該の州浜とされる部分が民有地に含まれる場合、都市計画上における規制等の枠内での土地利用を妨げることはできない。土地を所有される方の意向を尊重すべきものと考える。
なお、歴史的景観の保全については、JR島本駅西地区まちづくり委員会でも議論されている内容であることから、今後いただく予定の提言等をもとに、まちづくり全体のガイドラインとして作成してまいりたい。
尾山遺跡・越谷遺跡の歴史的・文化的価値は、JR島本駅西地区のまちづくりに付加価値をもたらし、また水無瀬神宮の存在価値をさらに高めるものです。島本町にとって、いえ日本史の観点から極めて重要なものと訴えました。
つづく*
画像
越谷遺跡にのこる池の汀の面影(2017年夏)
岬状の州浜は歴史的美地形として
JR島本駅西のまちづくりに活かしたい
次回の第7回JR島本駅西地区まちづくり委員会(最終)
令和3年1月29日(金曜日)13時から
島本町役場3階 委員会室
詳細、傍聴についてはこちらから
少し長いです。毎回、時間が足りない!という思いでいますが「NHKの朝ドラ」は15分、フィギュアスケートのフリー演技は数分であれだけのことが表現できるのだ、と自分に言い聞かせています(余談です)。
越谷遺跡とJR島本駅西のまちづくり
越谷遺跡が非常に重要です。2017年の夏、岬状の州浜の痕跡と思われる地形から、御所ヶ池の南が池であった可能性が高いと水無瀬殿研究の第一人者からご指摘いただきました。
真っ先に浮かんだのは、なぜか宇治の平等院の鳳凰堂の苑池、もともとは藤原道長の別荘「宇治殿」でした。後鳥羽上皇をこよなく尊敬していた後水尾天皇の修学院離宮の周辺地形との類似性にも気づきました。
南山城の浄瑠璃寺の池と本堂の姿(宇治の平等院に似ているが規模が小さい)などを思うと、桜井に同様の浄瑠璃世界が描かれていた可能性は十分にあると思います。
問:戸田
JR島本駅まちづくり委員会において参考人・前川氏は、池の汀と思われるとして、当該箇所、岬状の地形の保存を主張されていた。最低限、再度の調査による記録保存を求めておられたと思う。どのようなご発言があったか。
答:都市創造部長
第4回JR島本駅西地区まちづくり委員会(2020年11月17日)、参考人から、名神高速道路拡幅時の調査の際、御所ヶ池で発見された汀を例にあげられ、岬状の地形の保全を主張されていたものと認識する。
また、岬状の地形の詳細がはっきりしない状況において工事を実施するのであれば、発掘調査を実施のうえ記録として残す必要性を主張されていたものと認識する。
御所内、御所池、六条殿、薬師堂の庭、御堂前などの字名があることから、桜井の重要性は久しく研究者から指摘されていました。
昭和34年夏、7月から9月にかけて名神高速道路沿線史跡調査の一環として、奈良国立文化財研究所員が中心となり、広瀬・桜井地内にある水無瀬離宮跡と伝桜井御所跡の実測調査が行われています。←府教委の依頼による
ただ、この段階では後鳥羽上皇や鎌倉時代に関連づけるまでには至っていません。古記録が正確さを欠くきらいはあるとしたうえで、桜井は桓武天皇王子円満院法親王の桜井御所跡と伝えている(地元の伝承)とされていました。
このとき調査を担当された森蘊(おさむ) 氏(日本庭園史学の基礎を築かれた)は、執筆された『遺跡庭園の調査 水無瀬離宮跡並びに伝桜井御所跡の調査』(奈良文化財研究所)を次のように締めくくられています。
「いずれも類例の稀である平安・鎌倉時代宮園遺跡として、文化史上最も重要なものであることが確実となった上は地下遺構の記録保存することのできるよう、今後、工事現場との連絡を緊密にされたいものです。」
日本庭園史学の第一人者・森蘊 氏のご指摘から半世紀を経た今、記録保存の蓄積に加えて、文献、地形的観点からの研究がようやく充実してきました。だからこそ、今、地形を壊すことはなんとしても避けたいのです。
森先生が実践されたという徹底的な文献資料の分析や、測量図と発掘調査との照合が必要で、島本町の場合、考古学に偏り過ぎていると、とだは思います。
問:戸田
改めて、越谷遺跡における岬状の州浜と思われる地形の保存協議を、土地区画整理組合、業務代行者・株式会社フジタと行っていただきたいと思うが、いかがか。今のままでは地区道路が敷設され、岬状の形状が壊されてしまう。その損失は計り知れない。
答:都市創造部長教育委員会
平成29年度に実施した土地区画整理事業に伴う試掘調査で遺構等の存在の確認ができなかったため、現時点では発掘調査の予定はないが、工事中に重要な遺構・遺物の存在を確認した場合は発掘調査を実施する予定としている。
なお、今回の尾山遺跡で見つかった池泉跡は、後鳥羽上皇配流後に造営されたものである可能性が高まっており、水無瀬離宮に関連する州浜の存在を裏付けるものではない、と聞き及んでいる。
そのため、町教育委員会の見解に沿って対応してまいりたいと考えているが、組合との設計協議等に際しては、まちづくり委員会でいただいたご意見等についてもお伝えするなど、可能な範囲で協議を行ってまいりたい。
後鳥羽上皇の隠岐配流後、この島本町がどのようであったかという意味で、日本史上、非常に重要な資料になると思います。
森氏の提言を踏まえて、文献資料の収集・保存・活用をもって継続的な研究を半世紀にわたり行っていたならば、桓武天皇王子円満院法親王の桜井御所跡という伝承とは異なる見解が得られていたかも知れません。
場合によっては、町営鶴ヶ池住宅跡地を売却する前に西浦門前遺跡の重要性が推測できていたかも知れず、島本町の歴史・文化・景観、まちづくりも、今とは違ったものになっていたとわたしには思えてなりません。
いずれにしても、水無瀬殿研究者が、膨大な資料、地形、浄土思想、風水学などから、桜井が水無瀬殿を構成する重要な地域であったという論理的推測にたどり着かれた課程において、岬状の州浜が果たした役割は極めて重要なものでした。
問:戸田
このたびの尾山遺跡池泉跡等の発見により、鎌倉時代、貴族の暮らしが当該地に及んでいたことは明らかである。桜井の重要性、州浜の存在の意義、桜井における水無瀬殿研究の信憑性は格段に高まったと言えるのではないか
答:教育こども部長
尾山遺跡で見つかった池泉跡等は、現地説明会後も調査を進め、現状では後鳥羽上皇配流後の13世紀中葉以降に造営された遺構である可能性が高まっている。
後鳥羽上皇が関与していなくとも、非常に精緻に造られており、相当の有力者の関与が窺える遺構で、当時においても桜井地区が重要な地域であったことが窺える。
西浦門前遺跡で水無瀬離宮跡に関連する庭園跡が見つかっていることから、水無瀬離宮跡の範囲が桜井地区まで拡がっていたことは明らだが、尾山遺跡周辺や御所ヶ池周辺まで拡がっていたということを明らかにする資料は、現在のところ今回の尾山遺跡の発掘調査では見つかっていない。
越谷遺跡内に存在する岬状の農地が水無瀬離宮跡に関連する州浜であることを裏付ける資料も見つかっていない。
だからこそ今後の研究を待ちたい。島本町史、日本史研究として、後鳥羽上皇配流後の当該地のあり方を調査することが町教委の役割ではないでしょうか。
問:戸田
さて、当該地はヒメボタル(陸生・森のホタルとも呼ばれる)の生息地。と同時に、宅地造成工事規制区域でもある。農住ゾーンの農の部分を活かし、越谷池からの水路を利用してビオトープ的な緑地あるいは農地とし、歴史的景観の一部として保存・活用するという選択を切望する。考えられる課題は。
答:都市創造部長
農住ゾーンは、民有地となる部分と、公共用地の緑地や道路等となる部分で構成されている。当該の州浜とされる部分について、仮に公共用地の緑地として町に移管される場合、設備の管理コストの課題などもあるが、ご指摘のような協議は一定可能であるものと認識する。現時点においても水を補充しない中でヒメホタルが生息している。
しかしながら、事業実現性を考慮し道路の敷設や換地設計等を行われるため、当該の州浜とされる部分が民有地に含まれる場合、都市計画上における規制等の枠内での土地利用を妨げることはできない。土地を所有される方の意向を尊重すべきものと考える。
なお、歴史的景観の保全については、JR島本駅西地区まちづくり委員会でも議論されている内容であることから、今後いただく予定の提言等をもとに、まちづくり全体のガイドラインとして作成してまいりたい。
尾山遺跡・越谷遺跡の歴史的・文化的価値は、JR島本駅西地区のまちづくりに付加価値をもたらし、また水無瀬神宮の存在価値をさらに高めるものです。島本町にとって、いえ日本史の観点から極めて重要なものと訴えました。
つづく*
画像
越谷遺跡にのこる池の汀の面影(2017年夏)
岬状の州浜は歴史的美地形として
JR島本駅西のまちづくりに活かしたい
次回の第7回JR島本駅西地区まちづくり委員会(最終)
令和3年1月29日(金曜日)13時から
島本町役場3階 委員会室
詳細、傍聴についてはこちらから