先日このブログでも書いたが、高校時代の野球の恩師である監督が亡くなった。酒田では、いや山形県内では有名な名物監督だった。私にとっては人生の恩師であると言ってもいい。
監督と最初に会ったのは小学校5年生か6年生の時だった。私の所属していた野球スポーツ少年団(以下スポ少)に監督が指導に来てくれた。当時のスポ少の監督と監督が知り合いだったのが縁。
監督にはノックを打ってもらった。監督が何を話し、何を指導してくれたのは正直記憶にない。ただただノックを打ってもらったのは鮮明に覚えている。このノックが絶妙で、取れそうで取れないコースにバンバン飛んでくる。私は監督のノックでヘトヘトになった。
我が母校酒田東高等学校が甲子園に出場したのはその1、2年前。私が小学校4年生になる春の選抜大会である。子供ながらに、甲子園に出場した酒田東をテレビの前で、家族揃って応援したのを覚えている。しかも、今となっては大先輩である当時の選手を、呼び捨てで大声で応援していた。(恐縮です…汗)
その偉大な監督が自分の小学校に来て、自分たちにノックを打ってくれた。その時に私の胸の中である思いが決まったのである。「酒田東に行って甲子園に出場する」。
そして私は昭和58年の春に酒田東高等学校へ入学し野球部の門を叩くのである…。
~つづく~
監督と最初に会ったのは小学校5年生か6年生の時だった。私の所属していた野球スポーツ少年団(以下スポ少)に監督が指導に来てくれた。当時のスポ少の監督と監督が知り合いだったのが縁。
監督にはノックを打ってもらった。監督が何を話し、何を指導してくれたのは正直記憶にない。ただただノックを打ってもらったのは鮮明に覚えている。このノックが絶妙で、取れそうで取れないコースにバンバン飛んでくる。私は監督のノックでヘトヘトになった。
我が母校酒田東高等学校が甲子園に出場したのはその1、2年前。私が小学校4年生になる春の選抜大会である。子供ながらに、甲子園に出場した酒田東をテレビの前で、家族揃って応援したのを覚えている。しかも、今となっては大先輩である当時の選手を、呼び捨てで大声で応援していた。(恐縮です…汗)
その偉大な監督が自分の小学校に来て、自分たちにノックを打ってくれた。その時に私の胸の中である思いが決まったのである。「酒田東に行って甲子園に出場する」。
そして私は昭和58年の春に酒田東高等学校へ入学し野球部の門を叩くのである…。
~つづく~