年初より熊野古道/伊勢路を踏破すべく計画を立てた。
※1回目を2020.03.16-18の3日間(2泊3日)で伊勢神宮から三野瀬駅の始神さくら広場まで歩いた。
4月中に3泊4日で熊野速玉大社を目指し踏破する予定でした。
COVID-19で・・・
緊急事態宣言解除と6月1日からの東海三県の観光移動解除(東海三県内)を受け計画の練り直し。
残りを2回の遠征で踏破する事にした。(都合3回で踏破予定)
今回は2回目で三野瀬から二木島までを1泊2日で歩く。
週中に梅雨入り予報で3回目は涼しくなる秋口に1泊2日で熊野速玉大社を目指す。
■202006.08 早朝、前回の到着点:始神さくら広場に到着。ここに車を止める。
6:30より準備をし歩き始める。
少し歩けば始神峠の登り口。
新宮まで82km(全行程170km)、既に半分以上は歩いてきた。
前回の3月もCOVID-19の影響で施設などは静かだった。
樹林帯の緩やかな峠路は涼しく歩き出しには適していた。
30程で始神峠
※始神(はしがみ)とはサンショウウオを意味する「椒」(はじかみ)が峠の由来。
この峠から富士山も望めたらしい。
峠と展望台が整備されている。
実はこの峠・・・
絶景なんです
紀伊の松島の島々が熊野灘に浮かぶ。
伊勢路の中で熊野市の松本峠と並ぶ景勝の峠です。
峠を少し行くと明治道と合流する。
ツヅラト峠でも見ることができた野面乱層積みの石積みが残されている。
明治道と江戸道があるが古い方の江戸道を進む。
1時間で始神峠道を抜けた。
次の馬越峠までは街中の平坦な路が続く。
ここでは紫陽花に癒やされる。
お!ドラゴンズ・・と声を掛けれれた。
首から掛けた中日ドラゴンズのタオルを見ておじさんが声を掛けてきた。
このおじさん、現役の頃は旧中日球場の近くに住んで居たそうで、しばし世間話。
最後にガンバりなよと声を掛けてくれた。
海山郷土資料館はまだ開館前。
上里>海山>相賀と船津川沿いに路が続く。
「権兵衛が種まきゃカラスがほぜくる」の俗謡で知られる権兵衛さんはこの海山町お話です。
本日、唯一のコンビニ(相賀)で飲み物と昼食(おにぎり)を調達。
既に気温は高く、水分を補給が急務だ。
ポカリとお茶で1.5Lを持って歩き出したが既に残り0.5Lになっていた。
今日は暑い。
4月〜6月までにテニスをしながら日差しと気温に身体が徐々に慣れるのが、今年は適応ができていない!!
10:14馬越峠登り口
この峠をすぎれば尾鷲。
ここが登り口。
※夜泣き地蔵
旅の安全を祈願する為に建立されたお地蔵様はやがて子供の夜泣きを封じを祈る夜泣き地蔵へと変化した。
そのため哺乳瓶が供えてあった。
途中の沢で顔をあらい身体を拭きリフレッシュ。
ここでハイカー数名と初めて出逢う。
馬越峠(325m)
茶屋跡もある。
馬越峠の桃乙句碑(まごせとうげのとういつくひ)
この句碑は「夜は花の上に音あり山の水」
この句碑は「夜は花の上に音あり山の水」
ここからチョット山登りへ、峠を左に折れ天狗倉山へ
※天狗倉山(522m)
山頂では尾鷲湾の絶景が見られる。また山頂には大きな天狗岩がある。
峠に戻り桜地蔵方面へ。
※桜地蔵。
熊野古道=石畳道。
雨の多いこの地区で道が流されないように石畳が敷かれている。
この辺りの石畳には水を逃がす洗越しという溝がある。
12:50 馬越公園。
馬越不動滝はスグ近く。
尾鷲市内へ続く道はアスファルト。
列車の時間があるので尾鷲神社に立ち寄る。
神社に大きく聳える大楠は、雄楠が周囲10メートル、雌楠が周囲9メートルにも達しており、樹齢も一千年以上と推定され、昭和12年11月12日に県の天然記念物に指定。
14:40のJRで三野瀬駅まで戻る。
三野瀬駅から街中を抜け海岸沿いに始神さくら広場へたどり着く。
車を回収し尾鷲市の「夢古道おわせ」で汗を流す。
ここは6/1より営業している。
当時、熊野古道を旅する人は何処に止まっていたのでしょうか?
※お金を払って泊まる宿(比較的裕福な層以上の旅人)
・旅籠:120文〜250文(食事や弁当が出る)
・木賃宿:50文〜100文(米等持ち込み薪代のみで泊まれる)
※金銭や食料を殆ど持たない人が泊まる場所
・野宿
・善根宿(地域の有力者が自身の家などを無料で提供)
■古江浦に残る善根宿の関連文書には以下の善意が記されています。
・古江浦の善根宿
熊野古道沿いの 宿 ~ 巡礼者 を迎える 人々~ 現在の尾鷲市古江町(当時の木本組古江浦)には、遠く九州の諫早から熊野地方を訪れた旅人と、それを迎えた善根宿との交流にまつわるエピソードが、古文書として残されています。 時は文政13年(天保元年、1830)、肥前国諫早船越村(現在の長崎県諫早市)から、妻と子を連れて3人で巡礼の旅へとでた杢助さんは、長野の善光寺を参ったあと、西国三十三所の順拝へと向かいます。その途中、古江浦に立ち寄ったとき、杢助さんは急病で「歩行も出来難く」なってしまいました。善根宿をしていた和兵衛さんは、医師の渡辺俊察を呼び、「随分丁寧ニ介抱」して回復を願いましたが、それも叶わず5日目に杢助さんは亡くなってしまいます。杢助さんの亡骸は現地の光明寺に手厚く葬られました。妻子は和兵衛さんから、「あなたがたとはご先祖様よりの因縁もあるのだろうから、これからの弔いは私に任せなさい」との言葉を受けて、初七日供養まで逗留したのち、故郷諫早へと戻るため旅立って行きます。
妻子は無事に諫早まで帰り、それからしばらくして天保9年(1838)、杢助さんが連れていた息子の伊八郎が大きくなったのち、御礼のためにはるばる古江浦を訪れています。
熊野古道沿いの 宿 ~ 巡礼者 を迎える 人々~ 現在の尾鷲市古江町(当時の木本組古江浦)には、遠く九州の諫早から熊野地方を訪れた旅人と、それを迎えた善根宿との交流にまつわるエピソードが、古文書として残されています。 時は文政13年(天保元年、1830)、肥前国諫早船越村(現在の長崎県諫早市)から、妻と子を連れて3人で巡礼の旅へとでた杢助さんは、長野の善光寺を参ったあと、西国三十三所の順拝へと向かいます。その途中、古江浦に立ち寄ったとき、杢助さんは急病で「歩行も出来難く」なってしまいました。善根宿をしていた和兵衛さんは、医師の渡辺俊察を呼び、「随分丁寧ニ介抱」して回復を願いましたが、それも叶わず5日目に杢助さんは亡くなってしまいます。杢助さんの亡骸は現地の光明寺に手厚く葬られました。妻子は和兵衛さんから、「あなたがたとはご先祖様よりの因縁もあるのだろうから、これからの弔いは私に任せなさい」との言葉を受けて、初七日供養まで逗留したのち、故郷諫早へと戻るため旅立って行きます。
妻子は無事に諫早まで帰り、それからしばらくして天保9年(1838)、杢助さんが連れていた息子の伊八郎が大きくなったのち、御礼のためにはるばる古江浦を訪れています。
私は車中泊で昔で言えば野宿に近いですね。
明日の目的地、二木島移動しgoogleで確認した車中泊適地へ行くも300円で駐車できる場所は、水産会社専用となっており遠慮する事にした。
結局、尾鷲市八鬼山登山口にある駐車スペースで車中泊する事にした。
コンビニ食で夕食を済まし早めに寝る。
0:30頃、車の音で目が覚める、私の車の廻りをライトが光る。
八鬼山へこんな深夜から登るのかと思いきや。
ドアをノックする音と「警察です」の一言。
え
職質です。
熊野古道を歩いている者ですと色々話をするとそうですか。
最近物騒なので注意し歩いて下さいと言われた。
感じの良いおまわりさんと婦警さんでした。
車から離れる際は、助手席に「熊野古道を歩いています」とおいてある。
明日は西国第一の難所「八鬼山超え」です。
ではおやすみ。
大きな写真です。
2020.03 熊野古道 伊勢路170km 梅ヶ谷駅から三瀬野駅 3日目
2020.03 熊野古道 伊勢路170km 川添駅から梅ヶ谷駅 2日目
2020.03 熊野古道 伊勢路170km 伊勢神宮から川添駅 1日目
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