第2章佛教は本来葬式・法事に関わらない
佛教は本来葬式やお墓とは関係なかった
「佛教」というと、今日の日本人は、まず何を考えるであろうか。言うまでもなく、それは「葬式」と「法事」であろう。しかし、釈尊は、死に臨んで出家の弟子たちに言われた、「君たちは私の葬式に関わってはならぬ。それは在家の信者たちが適当に計らってくれるであろう。君たちはただ法(佛陀の教え)に生きよ」と。事実、インドの佛教では、長く僧侶たちは死者儀礼には関わらなかった。
死者は火葬に付して、骨と灰は河に流して、それでおしまい。葬式はなし。墓もない。彼らは輪廻・転生を信じて疑わなかったから、死んでも四十九日たつと、また人間か動物(畜生)か地獄か天上(神々)かに生まれ変わるのだ。それで墓は必要がないわけである。こうしてインドでは葬式も墓も問題にならなかった。葬式を大事にしたのは、インド人ではなく中国人である。葬式が佛教と結びついたのは中国である。だから、本来、佛教は葬式やお墓とは関係がなかった。現に日本でも、奈良佛教の寺院の僧侶たちは、葬式をしないと聞く。
ところが、現代の日本では、佛教というと、まず第一が葬式である。都会生活をしていて、家族に死者が出ると、葬式をせねばならない。そこで家の宗旨は何宗かということになる。故郷では「南無阿弥陀佛」と念佛を称えていたから、浄土真宗か浄土宗だということになる。あるいは「南無妙法蓮華経」と題目を唱えていたから、日蓮宗だというわけである。ふだんから檀那寺を決めている者はまず少ない。しかしよくしたもので、今日は葬儀屋さんがお坊さんと連携していて、適当に紹介してくれる。
なかには、宗旨に合わせて何宗のお経でも上手にこなして引導を渡してくれるお坊さんまで用意して契約してあるという。
そのさい問題になるのが「戒名料」である。ふだん不信心であった者が死ぬと、死んで地獄に堕ちる。それでは大変だというので、葬式のときに戒を授けてもらって、あわてて佛縁を結ぶ。そのさい「戒名」をつけてもらう。「戒名」というのは、言わば、あの世へのパスポートである。それも欲ぼって極楽行きの……。戒名ないし法名が、釈迦牟尼佛の佛子になる意味で、男性は、一様に「釈○○信士」、女性はみな「釈○○信女」なら問題はない。それを欲ぼって「○○院〇〇〇〇大居士」と大仰な戒名などと言い出す。当然、戒名料は高くなる。
ある会社の会長夫人が亡くなった。「坊主が戒名料を五百万円も取りやがった」という。そこで私は言った、「○○院というのは、私は寺院を一軒建立して佛法のために尽しました、ということですよ。今どき東京で五百万円で何坪土地が買えますか」と。
この会長、みずから佛教徒であることを売りものにしている事業家なのだから、あきれる。あなたいったい佛法を何だと心得ているのだ、と言いたくなる。
それくらいなら、院号をつけた戒名などつけなければよいのだ。ところがそうし得ないのは、糟糠の妻に頭が上がらないのと、心のどこかでみずから霊の崇りを怖れているからである。
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今回は書かれてあるとおりで全文記載。