十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
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誤解だらけの佛教13

2018年05月16日 | 佛教

佛陀は無神論者である

 話を「輪廻」にもどそう。人生の苦悩を痛感したとき、古代人たちはそれを人間が神に背いた罪の罰だと考えた。そこで、彼らは東西を問わずいちように、神を祭って人生苦から逃れようと考えた。古代インド人もそうだった。そこにバラモンという祭司階級が出現する。古代人にとって、農作物が豊作か不作かはもちろん、家畜がふえるのも、戦争に勝つのも、すべて「神の支配」によると考えた、そこでひたすら神を祭る。神を祭るすべを知っていて、祭りによって神々をさえ自由に動かせるというバラモンが、王や武人以上に尊ばれた。しかし古代インドにおいて、バラモンたちが自分たちを「第二の神」と称して宗教者として道を踏みはずし、民衆の信頼を失って、社会的に凋落をきたしたとき、民衆の心はウパニシャッドの哲人たちの教えを受けて、「神々の支配」から「業」 の思想へと変わっていった。
 
 人生苦は神々のせいではない 「自業自得」であると。私は、ここで先の「輪廻」の思想とからめて、進んで「業」の思想について説かなければならない。苦しいのは神の罰などではなく、自分の業(行為)のせいである。釈尊の教えは、後世のインド哲学でも佛教は「ナースティカ」すなわち〝虚無主義者″ないし〝無神論者″と呼ばれた。

 これはあくまでヒンドゥ教の立場から見ての話で、〝ヒンドゥ教的な立場から見た神の存在を認めない者”という意味である。「無神論」と言っても、いろいろな意味がある。近代西洋でいう無神論は、自我もあり自我をとりまく世界もあるが神はないというのである。
 
 初期佛教は、確かに一種の「無神論」であった。それが大乗佛教になって、一般の宗教学でいう「有神論」的な立場を取るようにもなった。しかし、釈尊その人の宗教は、あくまで無神論であった。人生苦の解決に「神」を持ち出さなかった宗教であったという意味でである。

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(一法コメント)
この部分については歴史的事実を述べているので、省略すると意味不明となるので全文記載。 

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