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十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

秋月龍珉師の「誤解だらけの佛教」18

2018年05月27日 | 佛教

「梵我一如」観は佛教なのか

 佛教を徳川期までの日本佛教の伝統からだけ見ないで、広いインドの宗教文化の伝統の中から捉えようという近代佛教学は、確かにそれなりの学的効果があった。しかし、そうした学者たちは、往々にして佛教の「悟り」をヒンドゥ教の「梵我一如」に結びつけて解釈しようとしたがる。私は断じてこの説に組しない。「梵我一如」の教説は佛教とはまったく本質的に異った宗教(ヒンドゥイズム)のものである。はっきり言って、それは一種の「大我」説であって、「無我」説を根本とする佛教とは相容れない考え方である。私は、このことをこれまでも声を大にして提唱してきた。私はここでも、声を大にしてこのことを改めて強調せざるを得ない。

 話を古代インドに戻そう。
人間は死後どうなるか - 以下、渡辺照宏著『佛教』(岩波新書)からの学びである- この間題は古今東西すべての人類に共通する重大関心事であるが、大部分の人は死と同時に虚無に帰するとは思わない。アーリア人もこの間題を追求し、ウパニシャッドに到ってほぼ次のようにまとめられた。

一、輪廻。人間は死後にあの世に赴いたのち再びこの世に生まれ変わる。この過程は無限に繰り返される。しかも人生には必ず苦痛が伴うから、輪廻の無限の系列は望ましいものではない。

二、カルマ。すべての人間には生まれながらにして幸不幸の区別がある。それには理由があるに違いない。それは前世におけるその人の行為(カルマ)〔業〕の結果である。人間はその生涯のあいだにした行為の結果として死後の運命が定められる。このカルマが輪廻の原因である。という説はのちのインド思想界を支配することになるが、ウパニシャッドの哲人ヤージュニャヴァルキヤは、この説を公開の席上で披露することをはばかった、と言われる。

三、祖霊の道。大部分の人は死後、煙とともに空中高く舞い上がり、闇の道を通って祖霊の世界に達する。そこから月の世界に行き、大気や風や雨とともに地上に下だり、植物の中に摂取され、食物となり、精子となって再生する。

四、神々の道。選ばれた人だけは死後に焔とともに光明の道を通って神々の世界に達し、そこから太陽と電光とを通過して、ついに絶対者ブラフマンと合体する。この道は生前に隠者として修行を積み、最高の真理を発見した者だけに許される。その人は解脱した人である。

五、ブラフマンとアートマン。ブラフマン 〔梵〕はもともと〝祈祷の言葉ならびにその魔力″をさす語であったが、ついに 〝宇宙の最高原理・唯一真実の実在″をさすことになった。またアートマンはもともと〝呼吸″の意味であったが、人間の内面の実在をさすことになり〝自我″を表わす代表的な語となった。そして人間の最も奥底に潜むアートマンこそは宇宙の最高原理としてのブラフマンと同一である〔梵我一如〕という認識がウパニシャッド哲学の最高の真理であると看做されることとなった。

これがヒンドゥイズムの結論である。

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(一法のコメント)

ここでは、渡辺照宏氏の本からヒンドゥイズムについての説明がなされている。一~五までの特徴があるが、釈尊の無我説とは異なっているよく知らなければならない。

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