十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

秋月龍珉師の誤解だらけの佛教16

2018年05月21日 | 佛教

正しい佛教は「霊魂」を語らない

 せっかくバラモン教の「神々の支配」を脱して、より進んだウパニシャッドの「自業自得」の教説を打ち出したのに、佛教徒までが「業」(カルマ)を「輪廻」と結びつけたりしてしまったので、その業の担い手、すなわち「輪廻する主体」は何かという問題が出てきた。しかも、佛教は、〝肉体が滅んでも死滅しない実体″である「個我」(霊魂)を否定する。これは厳たる釈尊の「無我」説である。この二つのあいだのアポリア(難問)の解決策として、「唯識」の「アーラヤ識」の観念が生み出された。これはこれで貴重な大乗教徒の思索の成果ではあったが、私のように「三時業」による「輪廻」説に執われさえしなければ、先の二つのあいだの矛盾を「(無我)説のもつ理論的弱点」だなどと言う必要もないことである。

 釈尊は「霊魂」について何も語らなかった。その意味で、佛教ははっきり「無霊魂」論だと言ってもよい。先に「佛教は(無神論)である」と言ったときも、注意したように、ここに言う「無霊魂」論というのは、あくまで私のいう言い方でという限定つきでの話である……。

 ほんとうは、佛陀は「(霊魂)はない」と言ったのではない。実は(有る)とも(無い)とも言ったのではない。「私にはそんなものは問題でない」と言われただけである。
こんな話がある。マールンクヤという青年がいて、佛陀に問うた、「この宇宙は有限か無限か。肉体と霊魂は一か二か。人間は死後も存在するかしないか」等々。佛陀は答えられた、「ここに毒矢に射られた人がいる。その人が〈この矢を射たのは誰か)とか、〈この毒の成分は?〉とか、〈何の理由で毒矢を射たのか)……それが分からぬうちは矢を抜いてはならないと言ったとすると、どうなるか。ー-彼は間もなく死ぬだろう」と。

 これが有名な「毒矢の喩え」である。「霊魂」とか「死後の世界」か、いや、有限か無限かなどという、無用の形而上学的問題には関わっているひまなどない(これは答えられない、というより答えないのである。これを「無記」という)。大事なのはまず毒矢を抜くことだ。まず即今の人生苦の解決という実存の問題の処理であるーーそれが佛陀の教えたところの大事であった。

 それなのに、今日日本で言われるところの「佛教」は、まるでもう「霊魂、霊魂、霊魂」である。そうでなければ、「死後の世界」の話。そして「葬式・法事」である。
そして、誰やらの霊魂が自分に語った-ーというような、怪しげな「霊言」集とやらが、ベストセラーになっていて、たくさんの人々が、それに関心を示しているという。
私は、そうした「霊魂」説と真の「佛教」説との違いを、改めてはっきりと厳格に直しておかなければならないと思う。それが今日の佛教の急務である。


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(一法のコメント)

最近、下のような記事を見つけた。死後の世界を信じる人が多数派であること、それが当然宗教に基づくものでそれは霊魂の存在を肯定的に見ているということである。

一体、何を根拠にしているのだろうか。宗教的言い伝えを盲目的に信じ込んでいると言わざるをないない。

中国がどの程度のものなのか、興味があるが入っていないのが残念である。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3996.html から参照。

詳細は当該サイトを参照されたい。

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